2021年11月14日 年間第33主日 B年(緑) |
人の子は、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める(福音朗読主題句 マルコ13・27より) 最後の審判 聖堂の扉の彫刻 フランス シャルトル大聖堂南扉 13世紀 ステンドグラスで有名なフランス、シャルトルの大聖堂に扉の上を飾る浮彫作品である。おもな要素を見ると、まず中央に玉座に座す審判者としての主キリストがいる。上半身の右側がはだけた「傷ついた方」として描かれている。これは、11世紀から西方全域に広まった描き方という。キリストの(向かって)左にはマリア、右は使徒ヨハネがいる。通常、十字架につけられたイエスの両脇に描かれることが慣例となっていくマリアと使徒ヨハネの二人(ヨハネ19・26-27に基づく)が、すべての人の救いを主に祈り求める存在として描かれている。 そして、使徒ヨハネの後ろの天使は、鞭打ち刑のための柱と鞭を、マリアの後ろの天使は、槍を抱えている。はっきり見えないが、キリストのすぐ上の二天使は(向かって)左が茨の冠、右が釘をもっているという。さらにその上の二天使は一緒に十字架と汗をぬぐった布をもっている。つまり、マリア、使徒ヨハネの姿勢と、四天使の持ち物などをもって、キリストの受難のことが克明に印象づけられるのである。 半身はだけたイエスの姿もそうである。天の玉座に座す審判者としての主キリストは、まぎれもなく人として苦しみを受けた方にほかならない、というキリスト教のキリスト理解がこのように強調されている。キリストの裁きを代行するかのように、その真下にいるのは大天使ミカエルである。その右手には、人類の魂を審査する秤が抱えられている。ミカエルの(向かって)右側には、呪われる人々が外に追われていく様子が描かれる。その先端の部分には悪魔がいる。それに対して(向かって)左側には、義とされた人々が敬虔な姿が描かれている。キリストの側から見ると、玉座の右下に、義とされた人々、左下に、呪われる人々が描かれていることになり、これは、たとえば、マタイ25章31-46節の裁きのために来臨する人の子を、羊と山羊を分ける羊飼いにたとえているイエスの教えとも対応する。羊と山羊は分けられて、羊は右側に置かれ、「わたしの父に祝福された人たち」とされる。山羊は左側に置かれ、「呪われた者ども」を意味するのである。大聖堂の扉の上に描かれる最後の審判図は、人々に生き方の選択を迫る教訓的なメッセージの意味合いをもったのであろう。 さて、きょうの福音朗読箇所はマルコ13章24-32節、人の子の来臨の様子を予告する内容である。そこで、「人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(27節)、これは、そのままマタイ25章31節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(マタイ25・31)とつながるような内容であり、最後の審判がなされることを暗示しているのである。その日、その時は、いつ来るかわからない。「父だけがご存じである」(マルコ13・32)というところに、人々の信仰とそれに根ざした生き方を求めるメッセージが含まれている。 この内容と呼応する第1朗読は、ダニエル書12・1-3である。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の子らを守護する」(12・1)というところである。この姿が福音書で「人の子」と呼ばれている主キリストの来臨を予示するものとなっている。このような聖書的表象が、この大聖堂の審判図でも主キリストと、その真下で仕えるミカエルの存在に対応し合っているのも興味深い。 ちなみに、ミカエルのことを記すのは、旧約聖書の中でダニエル書だけである(朗読箇所のほかには「大天使長の一人ミカエル」と記す10章13節)。ミカエルという名の意味が「誰が神のごとき」(だれが神のようであろうか)であるとおり、ほとんど神のような救い主として登場していることが興味深い。続く箇所では、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」(12・2)という形で、死者の中からの復活が救いとして語られる重要な箇所となっている。イエス・キリストの死と復活による救いを証言する新約聖書の先駆となっている。眠りから目覚めた人について「ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(同)と告げられ、上述のマタイ25章31-46節、さらに黙示録20章11節-14節で告げられる最後の審判の話とつながっていく。 最後にきょうの第2 朗読箇所、ヘブライ書10章11-14、18節のうちの12節を、この浮彫の中央の玉座におられるキリストを表していることばとして味わおう。「キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(12-13節)。 |