本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年12月25日  主の降誕 (夜半のミサ)  (白)  
今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった (福音朗読主題句 ルカ2・11より)

羊飼いの礼拝   
油彩画 レンブラント・ファン・レイン作
ロンドン ナショナル・ギャラリー 1646年

 日本でもとても有名な17世紀オランダの画家レンブラント(生没年1606~1669)の作品。1630年代には「キリストの昇架」「十字架降下」「埋葬」「復活」「昇天」といった主の過越に関する絵画を制作していたレンブラントは、1640年代には表紙絵の「羊飼いの礼拝」や「割礼」、さらに「聖家族」をテーマとする作品群を生み出している。表紙絵の「羊飼いの礼拝」も、生まれた幼子イエスを囲む聖家族の姿を描き出している。「聖家族」への崇敬が一般に高まっていた17世紀らしい作品と言えるかもしれない。
 その暗闇の中に幼子が不思議な光に照らされている。聖家族の礼拝、そして羊飼いたちの礼拝の静かな様子が、降誕の夜の出来事の深い意味を黙想させてくれるだろう。第一朗読箇所(イザヤ9・1-3、5-6)の冒頭「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)が心に響いてくる。福音朗読箇所ルカ2章1-14節では、幼子の誕生が、夜通し羊の番をしている羊飼いたちには、天使によって告げられるという形で、幼子が救い主であることについての告知を始める。羊飼いたちの礼拝は、全人類がイエスを知ることになる最初の礼拝であり、福音宣教の始まりの象徴となっている。羊飼いには、いろいろな意味があると思われる。イスラエルの民という民族性の意味もこの文脈では考えられるが、ひたすら生業に忠実に励む民衆の代表者という意味もあるだろう。レンブラントの作品でも、つつましく、敬虔な人々という民衆性の表現が感じられる。
 このような福音書の叙述と、17世紀の人々の心に映じた降誕の場面の図から、我々も今、主の降誕を迎える自分たちの姿にまなざしを向けていってもよいかもしれない。神が光をもたらしてくれたと語られる闇夜が今の我々にもあるのではないだろうか。我々も「闇の中」(イザヤ9・1)を歩んでいるのではないか。「死の陰の地に住む者」(同)であるのではないか。
 2020~21年、昨年からの新型コロナウイルスのバンデミック状況、2011年に発生した東日本大震災、原発事故状況、2001年の米国同時多発テロを思い出すだけでも、また、全地球規模の気候変動、環境破壊危機、およそ2020年前、パレスチナの民が苦しんでいた「闇」「死の陰」とも、17世紀ヨーロッパのそれとも比べ物にならないほどに全世界と約79億人もの人々をも脅かしているのではないだろうか。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9・5)を我々は本当に求めているのではないだろうか。主の天使が羊飼いに告げる「大きな喜び」を、(ルカ2・10)を本当に待ち望んでいるのではないか。主の降誕の福音をリアルに受けとめるためには、我々を覆っている闇に目を向けることが大切なのではないかと思われてならない。
 主の栄光の光に輝く幼子がどれほど、希望であり、喜びであるかを実感するために、このレンブラントの絵の暗闇の静けさに思いを潜め、今の我々の状況を照らし合わせていくことに意味があるように思われる。そして、このような救い主の誕生の出来事と現代の自分たちを対話させる黙想の中で、第2朗読のテトス2章11-14節の味わいがまた深まってくる。ここは、イエス・キリストの存在、その生涯全体を、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(11節)と要約している。誕生のことはそのことに含まれて前提となっていて、神の御子が現れたことの意味全体を語っている。そして「キリストがわたしたちのために御自身を献げられた」(14節)ことにその究極の実現がある。贖いのための自己奉献、十字架での死、そして復活までも視野に入れて語っている。ある意味で主の過越の神秘を告げるこの箇所が、降誕の夜に読まれるのは、主の降誕の神秘と過越の神秘は一体であることを語るためである。
 主の来臨を将来に待ち望むことから始まった待降節は、だんだんと主の生涯の始まりに遡っていき、そしてその誕生の出来事にきょう到達するが、そこでも記念されるのは、主の受難と復活に示される贖い主としての自己奉献であり(これがミサの意味するところである)、待ち望まれる「イエス・キリストの栄光の現れ」(テトス2・13)である。降誕祭において、神の救いの計画、その歴史の全体が思い起こされている。そして、我々は終末の主の来臨に向けて「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」(同12節)と神の恵みそのものによって、キリストの姿そのものによって教えられている。イエスの誕生の出来事を17世紀の絵画を経由しつつ、また21世紀初めの現代の中で受けとめるとき、このテトス書のことばは、大きな力をもって迫ってくる。捨てるべき「不信心と現世的な欲望」、そして求められている思慮深さ、正しさ、信心深さとは、今、どのように実現していくとよいのだろうか。愛に満ちている聖家族の光景とともに思いを巡らしていきたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

現実を生かす信仰
 信仰とは超自然的な神秘体験でも、心を熱狂させる宗教感情でもありません。ときにこれらのことを伴うことはあっても、本来このようなこととは別のものです。信仰は神から与えられた一つの知識、しかも生命に満ち力ある知識です。信仰は目に見えないものを見えるようにしてくれる能力です。しかしそれは色メガネのように現実のものを違ったように見せるものではありません。現実のものの姿を少しも変えないで、ただその事物が本来秘めている意味を読み取らせるものです。

オリエンス宗教研究所 編『キリスト教入門――生きていくために』「第2講 神を求めて」本文より

 定期刊行物のコラムのご紹介

『聖書と典礼』主の降誕(夜半のミサ)(2021年12月25日)号コラム「無条件の愛を告げる産声に」
このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL