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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年1月23日 年間第3主日(神のことばの主日) C年 (緑)  
この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した  (ルカ4・21より)

巻物を手にしたキリスト
イコン
北マケドニア オフリト国立博物館 13世紀

 表紙絵は、全能者キリストを描くイコンのタイプの一つである。右手は祝福のしぐさ、左手には、神のことばを象徴する巻物を抱えている。神である主として描かれるキリストといってもよい。ギリシア語原語では「パントクラトール」という。直接には、万物を支配する権能をもつ者を意味する。「全支配者」と訳すのが本来はふさわしい。ラテン語に訳すと「オムニポテンス」であり、典礼文の中で「全能の神よ」と呼びかける句の原文で使われている言葉である。
 日本語的には「全能」は「万能」と似て「すべてのことができる」の意味で、つまり「何でもできる方である神よ」という意味で捉えているかもしれないが、「すべてを支配している方である神よ」というのが忠実な訳になる。集会祈願の結びの中で「あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子」という句があるが、まさにこの「支配しておられる」の意味である。
 結局、「パントクラトール」(全支配者)とは、旧約聖書以来の神理解、「主である神」の理解を受け継ぎ、今や、復活して、キリストが神の右の座に着き、父とともにすべてを支配しておられる、「生者と死者を裁くために来られます」と使徒信条で宣言する信仰表現のことばである。全能者キリストのイコンは、このような信仰的理解に基づくものである。
 そして「支配者」という言葉をもって眺めるとき、イエスにおける「支配」、「神の国」と呼ばれる神の支配がどのようなものであるかを考えなくてはならない。それこそ、きょうの福音朗読箇所ルカ1章1-4, 4・14-21節が雄弁に語る。冒頭は、ルカ福音書そのものの冒頭である。それはこのC年の第3主日からルカ福音書に沿って年間主日の朗読が展開していく最初にあたるからである。そして、本編はナザレの会堂でイエスが預言者イザヤの書の朗読にあたるとき、イザヤ書61章1-2節、58章6節にあたる内容を目にして(ルカ4・18-19)、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告げるところである。そこは、まさしく主の霊を受け、「主がわたしに油を注がれた」者、すなわち「メシア」(救い主)としての自己表明であった。「貧しい人に福音を告げ知らせる」こと、「捕らわれている人に解放」「目の見えない人に視力の回復」を告げること、「圧迫されている人を自由に」することと語られる(18節)。これほどにイエスの使命を十全に語る表現はないだろう。約束された救いを実現する方ということで、このイエスのことばと行いは、旧約の契約と律法を凌駕することが告げられているのである。
 イエスにおいて実現する聖書のことばは、神のことばであるということの意味を浮き彫りにさせるために、第1朗読ではネヘミヤ記8章の抜粋(2-4a,5-6,8-10節)が読まれる。バビロン捕囚から帰国した人々により神殿が再建され、そこでの礼拝集会において、イスラエルの民が律法を中心に信仰共同体として再出発するという場面が述べられる。再出発をするその日を「主にささげられた聖なる日」(ネヘミヤ8・9,10)として祝う感覚が、福音朗読箇所では、イエスの登場により救いの約束が実現された日「主の恵みの年」(ルカ4・19)の到来として乗り越えられていく。以来、イエスの歩みは、主の恵み、すなわち神の国の到来を、自らのことば、教え、行動、そして最終的には受難を通して、あかししていく歩みである。
 イエスの存在、姿、ことば、行いには、すべてにおいて、神の子としての姿があふれていくのであろう。「貧しい人」「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」へと積極的に出会っていく。そして、解放された人々、贖われた人々の共同体が形成されていく。それが決定的になるのは、もちろん、弟子たち、使徒として遣われさる人々が、イエスの受難と死、そして復活を体験することによってである。そのとき人々は、ようやく初めて真実を悟るのである。そうしたとき、イエスにおいてすべての人を慈しみ深く導く方としての全支配者である神、父である神が現される。イコンの描く全支配者キリストは、そのような「メシア」の姿を礼拝させてくれる。すべてのもの、すべての人を支え、心を配る方、いつもともにいる方としてのキリストでもある。
 このような意味では、年間第3主日が数年前に教皇フランシスコによって「神のことばの主日」と呼ばれるようになったことに、このC年の朗読箇所がもっともよく対応しているといえる。新しい神の民が、今一度、神のことば、いつもともにおられる主キリストのもとで、一致し、またそのいのちにあずかり、一人ひとりがキリストの体となって(第2朗読箇所 一コリント書12・12-30参照)それぞれの使命を果たすために現代に派遣されていこうという呼びかけに満ちあふれている。ミサを通して、我々は、つねに、すべてを導かれる主キリストによって、この派遣の呼びかけを新たに受けるのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

行動する主体、人格
 ことばは単なる音の振動として人間に知覚されるのではない。人間はことばを受けとめ、理性や意志、感情をもってこれに応える存在である。そのように人間がことばを内的に「経験」することができるからこそ、ことばは力を持つ。ヴォイティワによれば、人間は単に外的な環境から規定されるような存在ではなく、むしろ、主体的に行為する存在である。すなわち、その人に働きかけ示されるものを、自由に受けとめ、自ら主体的にこれに応えるという仕方で行為し、経験し、自己を選びとっていく人格存在である。

武田なほみ 著『人を生かす神の知恵──祈りとともに歩む人生の四季』「19 扉を開いて」本文より

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