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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年1月30日 年間第4主日 C年 (緑)  
母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた  (エレミヤ1・5より)

預言者エレミヤ
ミケランジェロ画
システィナ礼拝堂天井画(部分) 1508-12年

 きょうの福音朗読箇所はルカ4章21-30節。先週の箇所の結び(4・21)が繰り返され、それに続く出来事が述べられる。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と告げるイエスに対する、いわばネガティブな反応が注目である。イエス自身は、「預言者は、自分の故郷で歓迎されないものだ」(24節)という例としでエリヤの例(列王記上17章参照)、エリシャの例(列王記下5章参照)をあげる。いわば神の計画された救いの実現が示される箇所と、このようなネガティブな人々の反応は、イエスの生涯の中で絡み合いながら受難に向かっていく。その暗示がルカ福音書におけるイエスの宣教活動の最初に示されるというところが主題となっている。
 第1朗読は、ある意味でイエスの生涯において極致のように示されることになる、預言者の苦難ということのもう一つの大きな例として預言者エレミヤを思い起こすような意図で構成されている。朗読箇所のエレミヤ書1章4-5、17-19節は、エレミヤが自らの召命に際して、自分に臨んだ主のことばの内容を示す。母の胎内に造られる前から、主に知られており、また母胎から生まれる前に、預言者として聖別されていたことが語られ、ユダの国の指導者や民からの敵対を受けつつも、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」(19節)と主から告げられる。この朗読箇所にちなむ表紙絵=バチカンのシスティナ礼拝堂天井画にあるミケランジェロ画のエレミヤ(部分)は下を向き、目を閉じ沈思している。憂いに満ちた表情といえるかもしれない。自らも苦難を味わった預言者の一面が強調されているのだろう。この絵とともに、エレミヤについて学びながら、救いの歴史について黙想してみたい(『新カトリック大事典』「エレミヤ」の項目を参考にする)。
 エレミヤという名は、王国時代には「主は立てる」と理解されたこともあるが、元来は「主は贈る」を意味するものだったという。主の派遣が名前に込められているという点は意味深い。エレミヤは、ユダ王国のヨシア王の治世13年目(紀元前627 年頃)に預言者となる召命を受けた。当時広大な地域を支配していたアッシリア帝国が衰退期に入り、政治的大変動の時代だった。エレミヤは、ヨシヤ王の治世中に、ユダの人々が真心をもって神に帰らなかったことを見抜いて非難し、ユダ王国に対する神の審判を宣言し(エレミヤ3・6-10)、国とエルサレムへの災いを予告する。このような歩みも、きょうの朗読箇所の中に予告されていることである(同1・18)。ヨシヤの後継者ヨヤキム王のときには新バビロニア帝国による脅威が増大し、ヨヤキン王のときに最初のバビロニアへの連行が起こる。このように、エレミヤはユダ王国が失われていく過程の中で、それが指導者や民の不信仰に起因することを非難し、回心を訴えるが、国の歩みはさらに滅亡へと向かっていく。旧約の民の歴史の大きな転換点を生きた預言者だったのである。
 しかし、徹底的な滅びを経験した民に、エレミヤは真の救いが訪れることを告げる。それが「新しい契約」の約束(31・31-34)である。「新しい」というところには、シナイ契約をもって導かれてきたイスラエルの民による契約の破り(主への背き)という厳然とした事実が含蓄されている。「彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれであると、主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの民となり、彼らはわたしの民となる……」(同31・32-33)。
 この約束をもって、エレミヤの預言と、イエスの生涯が直結する。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(ルカ4・24)と自覚を告げるイエスは、ここではナザレの人々の反感を受け、命の危機に合うが、それを通り抜けていく。しかし、もっと大きな敵対の力に服し、いのちをささげることを通して、もっと大きないのちに入っていくことになる。そのような生々しい力の拮抗状況の真っ只中に入り込んでいくのが、その福音宣教の生涯の紛れもない姿である。自己奉献をもって実現する新しい契約のしるしとしてイエスは、自分の体と血を意味するパンとぶどう酒による晩餐を残してくれたのである。感謝の祭儀、ミサの形成である。
 こうして、神の計画を思うとき、エレミヤとイエスをつなぐ「預言者」、そして「新しい契約」というキーワードが実は、我々にも託されていることに気づかされる。キリストによって結ばれた新しい契約は、単に、過去に結ばれた安心材料のようなものではなく、感謝の祭儀を通して、つねに今、新たにされ、我々がその契約に生きることを決意すべきものである。それは、どのような困難にあっても、将来において完成されるものとして待ち望まれる、我々の希望の根拠でもある。キリスト者は、ミサを通してそのことを絶えず悟らされ、その福音を告げ知らせるために現代の預言者として絶えず派遣されるのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために


 
2 奥村師は、修道者の誓願の在り方だけでなく、世界におけるあらゆる人間の存在や実践の方向付けについて、三つの原理、つまり生命原理・造形原理・素材原理というヴィジョンを示しておられる。そのためパン種、パン粉などの比喩が用いられる。このヴィジョンもトマス神学に根差しているように思われる。さてパンが具体的に生命の糧として協働態の分かち合うもの、分かち合いのよすがとなるためには、パン職人の下で焼く火とパン種と小麦粉とが協働しなければならない。

奥村一郎 著『奥村一郎選集──第9巻 奉献の道』「解説 宮本久雄」より

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