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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年4月10日  受難の主日(枝の主日) C年 (赤)  
父よ、わたしの霊を御手にゆだねます  (ルカ23・46より)

十字架のキリスト
ビザンティン・イコン
アテネ ビザンティン美術館 14世紀

 十字架磔刑図のイコン。黄金色の背景に、十字架の木、そしてイエスの体が浮かび上がり、その体も同じように黄金色の反射を受けているようである。イエスの母(マリア)が十字架の(向かって)左側に、使徒ヨハネが右側に描かれるというヨハネ福音書19章25-27節に基づく描き方は、東西ともに普遍的な構図となっていく。イエスが「母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』」言い、弟子には『見なさい、あなたの母です』」と言ったことは、教会の誕生、ひいては、新しい人類の誕生を意味すると解釈されることが、聖画の中でも深く刻まれていく。
 同様な構図のイコン(写本画)でも詳細の描き方や雰囲気は、多様である。このイコンの場合、母も使徒も深く頭を垂れ、嘆きの中に沈んでいる様子がひたひたと伝わってくる。イエスの姿は、軽く屈曲し、力なく死にゆく様子である。手や足や脇腹から血が流れ出しているわけではない。十字架の上方には小さく天使が二位描かれているが、穏やかである。静かに死にゆくイエスの死の事実が、覆い隠されることなく、描かれているといえる。
 受難の主日は、ミサのことばの典礼の中で、A年はマタイから、B年はマルコから、C年はルカからその受難についての叙述が朗読される。三つの朗読の中でイエスが十字架で息を引き取るまでの叙述を比べてみよう。マタイ(27・45-50)とマルコ(15・33-38)はほぼ並行している。マルコに従うと、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時ごろまで続き、三時にイエスは大声で叫ぶ。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てになったのですか」という意味である。これに対して人々のつぶやきがあり、兵士が酸いぶどう酒を含ませた葦の棒を差し出すという行動があり、最後に、イエスは再び大声で叫び、息を引き取る。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けるという流れである。
 それに対して、ルカ(ルカ23・44-46)では、「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。こう言って息を引き取られたとある。光景の共通さのほか、イエスが「父よ」と、御父である神に向かって大声で叫んだのが最後のことばであったことは三福音書とも共通である。
 マタイ、マルコが記す「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てになったのですか」は、詩編22の冒頭の句「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」である。一見疑うような文言でありつつ、この詩編は、最後には、神への信頼を告白する賛美の祈りである。ルカが記す「わたしの霊を御手にゆだねます」も、元は詩編31・6の「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」にある。文言は異なるが、詩編を通して神の民が神にささげてきた祈りをイエス自身は、磔刑の苦しみの中から全力で声にして叫ぶ、御父の子としての、しかもまことの人間としての叫びを残して息を引き取る。それは、ヘブライ書の証言が見事に言い表しているとおりである。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ5・7-10)。
 このイコンは、静かに十字架上で自らの霊を神の御手にゆだねた姿を観想させてくれる。地上の人間は、まだ悲しみに沈んでいる。死は死であり、悲嘆は悲嘆である。イエスはまことの人間であるので、それはまことの死であった。しかし、神の御子であることは、その死を比類なき高みにおいて完成してくれている。そこにはすでに復活があり、新しいいのちが始まっているというのがキリスト教の信仰である。御子の死は、まことの死として、イエスを慕う人々とともに、すでに黄金色の神の世界に迎え入れられている。この過越の神秘を観想させてくれるイコンとともに、聖なる過越の三日間の典礼を迎えよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

私に寄り添ってくださるイエス
 昔、ある本の中で、晩年に次のようなことをある方が言い遺していたのを思い出します。「私たちは死に向かって生きていく中で、二つの言葉に生を貫かれる。『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』。『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』。この神に見捨てられたことを告白する言葉と、神のみ手に自らの命をゆだねる言葉を通して、解き難い問いを受けとめる人は、イエスの生涯を自らと分かち合いながら光に向かって生きるのです」と。
 教会は長い歴史の中で、毎晩、「寝る前の祈り」 において、この十字架上でのイエスの最後の祈りを繰り返してきました。
   

中川博道 著『存在の根を探して──イエスとともに』「19 苦しみの中のイエス」本文より

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