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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年4月17日  復活の主日 (白)  
イエスは、死者の中から復活されることになっている (福音朗読主題句 

空の墓
ヴィシェフラド福音書
チェコ プラハ大学図書館 11世紀後半

 中世のボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハの一角ヴィシェフラドはボヘミア公の居城であった。1085年、ボヘミア公ヴラチスラフ2世の即位を記念して製作されたのがこの福音書である。キリスト教国として発展しつつあるボヘミアの文化を窺わせる作品とされる。その挿絵のうちの一つであるこの絵は、イエスの墓を訪れた三人の女性たちの前に、天使が現れ、墓が空であることを描く。外された墓の蓋に腰掛けている天使は、先に十字架がついた長い杖を手にしており、その先に円蓋からぶらさがるランプが見える。画面全体が建物として表現されているが、これは一般に地上世界の象徴である。その中央の上から降りてくるランプは、キリストの復活によってこの世界に光が注がれたことを意味している。
 この絵の表現と照らし合わせながら各福音書を味わっていこう。なお、復活の主日・日中の福音朗読箇所は、毎年ヨハネ福音書20章1-9節が指定されているが、A、B、C年に応じて復活徹夜祭の福音朗読箇所(マタイ28章1-10節、マルコ16章1-7節、ルカ24章1-12節)の朗読も可能である。
 まず、墓参りをする女性に注目しよう。絵では三人描かれている。このことについて各福音書の言及は多彩である。ヨハネでは「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(ヨハネ20・1)と、マグダラのマリアが単独で行ったと述べるのに対して、マタイでは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ28・1)と二人、マルコでは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」(マルコ16・1)と三人、ルカでは「婦人たち」(ルカ23・55)が墓に行ったことをまず述べ、あとで、彼女たちは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(24・10)ともっと多いことが考えられる。こう見ると、表紙絵の三人はマルコが直接には適合する。この絵で天使に最も近くで、画面のほぼ中央に立ち、しかも、正面を向いている女性が、全体として共通に(ヨハネでは唯一)登場するマグダラのマリアであろう。
 番兵についてはどうだろう。実は四福音書の中で番兵に言及しているのは、マタイだけである。ピラトが次のように命令している。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい」(マタイ27・65)、そしてイエスの墓で主の天使が現れたことに対して、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(マタイ28・4 )と記される。この言及については、それでも、空の墓のエピソードを描くために好んで描かれるようになった。番兵たちの目を見ると、眠っているように見えるのが下の三人のうちの(向かって左の)二名であり、他の三名は、下からと、棺の両脇から起こっている出来事を見つめる姿勢をしている(ただし、どれも瞳が描かれていないのでよくはわからない)。眠っている番兵については地上の目では見ることのできない復活の出来事のあかしがあるとも考えられる。見ている番兵については、マタイの後の言及で「数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」(マタイ28・11)とある。そして、弟子たちによって死体が盗まれたと言うよう買収されたくだりが続く。逆に言うと、イエスの復活についての報告者になった人たちだとも考えられる。
 女性たちの前に現れた方の言及はどうだろう。ヨハネでは朗読箇所には登場しないが、そのあとのエピソードで、マグダラのマリアが「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた」(ヨハネ20・11-12)とある。マタイでは、「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(マタイ28・2)、マルコでは「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」(マルコ16・5)、ルカでは、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」(ルカ24・4)とある。この絵は単独の天使なので、マルコ-マタイが基調になったと思われる。絵の中の天使の姿は、ある意味ではそのメッセージの形象でもある。共観福音書は基本的に同じである。「主の天使」と明確に記すマタイからとると、それは、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(マタイ28・6)……静かな、しかし、力強い福音である。ここから、神と人類、そして世界の歴史が根本的に転回していくことになる。
 この絵は、人物の表情、衣装、墓を意味する棺や天蓋、建物の壁などの描き方は極めて装飾的である。全体として鈍い紅色が基調となっており、コントラストも強くない。それでも、ゆっくり眺めていくと、やはり全体として主の復活が意味するもの、救いの実現の喜びと神賛美の心が伝わってくるのではないだろうか。

コラム 『聖書と典礼』(復活の主日)「わたしは主を見ました」(イエズス会司祭・上智大学神学部部長)

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

イエスは、神の宣言、キリストである
 死んだのはイエスであると同時に、弟子たちであった。彼らの耳には、十字架上でのイエスの叫びが生々しく残っていたに違いない。「なぜわたLをお見捨てになったのですか」。それほ、イエスの叫びであると同時に、弟子たちの叫びであった。そんな絶望状況に、突然、全く一方的に、恩寵の答えが訪れる。
 後に彼らが「復活」としか表現しようのなかったその「神が答えてくれた恩寵体験」がどのようなものであったか、聖書には様々な報告が残されている。それはおよそ世界内のことばでは語り得ない圧倒的な体験であるために、その報告は混乱しているが、ひとつだけ言えるのは、弟子たちは「生きているイエスに会い、その福音宣言を受けた」ということである。それも、世界内のイエスではなく、神の世界を生きているイエスに。

晴佐久昌英 著『福音宣言』「第6章 キリストは、宣言する」本文より

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