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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年5月8日  復活節第4主日 C年 (白)  
わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28参照)

良い羊飼い
モザイク
ラヴェンナ ガラ・プラキディア廟堂 5世紀

 ガラ・プラキディア(390 - 450)はキリスト教を国教にしたとして知られるローマ帝国皇帝テオドシウス1世の娘。ラヴェンナにあるこの廟堂のモザイクによって、その名が知られるものとなっている。この廟堂の入口の上の壁に描かれているのが、この良い羊飼いとしてのキリストと羊たちの図である。
 髭のない青年の姿のキリストは、金色の衣をまとい、頭の後ろには同じく金色の光輪が描かれ、すでに主としての輝かしさに満ちている。その中でも、左手が抱える十字架型の牧杖は、どのようなことを経て、すべての人を導く牧者になったかを示している。緑豊かな景色の中で、キリストは岩の上に座している。羊たちを平和に導いている。羊たちも安心しきって、主の世話を受けている。それはすでに楽園の光景でもある。
 良い羊飼いは、キリスト教美術の初期から愛好されたキリスト像である。カタコンベの壁画や石棺彫刻でひんぱんに登場した。キリストを示す属性をもたずに、ほんとうに当時のローマ社会にいた牧者の姿を映し出すかたちで、筋骨たくましい壮年の姿やひげのない青年の姿などで多様に描かれてきた。直接には、死後の魂の世話をキリストにゆだね、その導きを願うという永遠の命への希求を表現したものと考えられている。廟堂の壁画にふさわしいモチーフであろう。キリストに寄せる救いへの願いとともに、その根本に、キリストに対する賛美が込められていることも忘れてはならない。背景の青も美しい。神の栄光、聖霊の充満、緑が示す永遠の命、羊の白い毛が示す、すべての罪から解放され、清められた者としての姿、救いの恵みに対するキリスト者の思いが凝縮されている。
 さて、復活節第4主日の聖書の箇所を確認しよう。この日は「良い牧者の主日」「良い羊飼いの主日」と呼ばれるようにABC各年ともにヨハネ福音書10章から朗読箇所が選ばれている。A年=10章1-10節、B年=10章11-18節、C年=10章27-28節。全体を通して、自分の羊を呼び、導く羊飼いと、その声を聞き分け、従う羊たちの関係が語られる。そのA年で読まれるヨハネ10章1-10節では、イエスはまだ自らを羊飼いとは言っていない。そこでは、イエスは自らを「羊の門である」(7節)、「門である」(9節)と告げる。この文脈では、「羊飼い」は父である神自身である。イエスは、父である神と人間とが出会うために開かれる門であるとまず言われている。B年の朗読箇所となる10章11節から、イエスは直接「わたしは良い羊飼いである」と語り出す。14節でもこの言葉は繰り返され、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(15節)と、父と自分(キリスト)の一体性が告げられる。こうして、この主題がそのまま今年C年の10章27-30 節でも続いており、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節)と語り、「わたしは彼らに永遠の命を与える」(28節)と告げるのである。
 その末尾には「わたしと父とは一つである」(30節)とも語られるのであるから、羊飼いの姿のうちにすでに御父も御子イエスも一つにイメージされているということにもなる。おそらく古代教会で好んで描かれた良い羊飼いの姿は、御父と御子の両方のペルソナが含まれているのであろう。表紙のモザイクにおけるキリストの主としての尊厳は、実は御父の存在と栄光の反映である。御父自身が形象で描かれないところでも、キリストが御父を表している。キリストらしい属性を帯びるようになった図像は、すでに御父と御子の一致を根源に宿した主キリストの姿である。こうして「良い牧者の主日」はすでに「三位一体の主日」でもある。
 このモザイクは、きょうの第2朗読の黙示録7章9節、14節b~17節を味わううえでも重要である。そこでは、大群衆が玉座におられる小羊(キリストの象徴)の前に集う。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節b)と、いのちの危機の中にも信仰を貫いた人々や殉教者たちのことを語っているようでもあり、広くとれば、キリストに結ばれて洗礼を受けた人々全般を指すとも考えられる。そのような信仰者たちにとって「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」(17節)と約束される。モザイクの中でも玉座にいる羊飼いのもと、羊たちが安心して群がっている様子のうちに、自らのいのちを罪のあがないのいけにえとしてささげたキリスト(小羊)との永遠の一致が描かれている。それは、主日ごとに、この牧者のもとに集い、そのいのちに交わり、そこから派遣されていく神の民と主キリストとの交わりの光景そのものである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 古代においてはケルソス、近代に入っては十八世紀にさかのぼるプロテスタント自由神学の中にみられる合理主義、自然主義、心理主義、科学主義による聖書解釈の系譜をたどりながら、自説を裏づけてくれそうなものを克明にまとめながらキリストの神性否定の理論を貧しいなりに築きあげていった。しかし、その聖書とカトリックへの飽くなき挑戦はキリストを拒絶するためではなく、真実のキリストを求めるが故に、キリストの虚像を破壊していかねばという怨念に近い執念からであった。しかし、聖書の非神話化と「神が人となられた」というキリスト教の基本的教義に対する激越な反抗は、いつかキリストの実像へのあらがいがたい渇きとなっていた。

奥村一郎 著『奥村一郎選集──第6巻 永遠のいのち』「刊行にあたって」本文より

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