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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年5月15日  復活節第5主日 C年 (白)  
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい (ヨハネ13・34より)

最後の晩餐
多翼祭壇画部分 サッセッタ画
イタリア シエナ国立絵画館 1423-26年

 15世紀前半のシエナ派の画家サッセッタ(生年不詳~1450年没)という画家の描く最後の晩餐の絵である。サッセッタとは綽名で、本名はステファノ・ディ・ジョヴァンニ・ディ・コンソロ・ダ・コルトナというようにコルトナ出身と推定されている。彼の作として知られる最初の作品が、シエナの羊毛組合のためのこの多翼祭壇画であり、さまざまな画題の絵が組み合わされているうちの一つである。その画風は、魅惑に富んだ幻想的な詩情にあるとされる(小学館『世界美術大事典』参照)。
 晩餐の図としては、中央にイエスがおり、その周りをきっちりと12人の弟子が囲んでいる。それぞれの視線はさまざまである。イエスの(向かって)左側がペトロ、右側が「イエスの愛しておられた者」(ヨハネ13・23)と呼ばれる使徒ヨハネではないかと思われる。では、この中でイスカリオテのユダがだれか。一つのヒントは、頭に描かれる光輪がついているかどうかにあると思われる。そうすると、イエスの真ん前にいる二人の弟子のうちの(向かって)左側がユダということになる。
 15世紀前半の絵となるとこのように空間の奥行きの表現もなされている。イエスを囲む食事の雰囲気、弟子たちの視線やしぐさの違いの中に動きも感じられる。とはいえ、裏切り者がいることをイエスが告げ、弟子たちが驚くといったようなドラマティックな場面構成でもない。あくまで静寂で、イエスが何を告げるのかを待っている厳粛な一瞬のようでもある。イエスが左手に掲げている白いパンはミサのホスティアのようであり、前にある一つの杯はミサのカリスのようである。明らかにミサの光景がこの晩餐の食卓に投影されている。最後の晩餐と、最後の晩餐において制定された感謝の祭儀(ミサ)との関係がこの祭壇画という位置の中でしっかりと踏まえられているといえるだろう。
 さて、復活節の朗読配分は、第4主日からヨハネ福音書によるイエスの教えが続いていく。第4主日はヨハネ10章から良い羊飼いの教えがABC各年とも読まれ、第5主日、第6主日は、ヨハネ13章、14章、15章のいわゆる告別説教の内容がABC年のそれぞれに巧みに配分されている。これは、受難に向かうイエスの言葉を、今、我々教会とともにおられるキリストの教えとして受けとめていくという意味でとられている朗読配分である。それは、イエスの生涯を神の子の栄光のあかしとして初めから説き明かしていくヨハネ福音書の特色とも合致しているといえよう。そのなかで、C年のきょう、復活節第5主日の朗読箇所は、ヨハネ13章31-33a、34-35節。最後の晩餐で弟子たちの足を洗った場面とその教え(13・1-20)、そして、ユダの裏切りの予告(13・21-30)のすぐあとに続く教えである。
 イエスの受難は、ユダが裏切ったことがはっきりしたことによってすでに始まっている。イエスはこのことを指して、「今や、人の子は栄光を受けた」 (13・31)と告げ、受難が始まったこのタイミングで、新しい掟として愛の掟が授けられる。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。これが弟子であることのあかしとなるというようにである(13・35参照)。ヨハネ福音書でこの掟はさまざまな文脈で繰り返される。ヨハネ15章12節では、同じ文言が出てきたあと、13節では「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、愛の本質が説き明かされる。「わたしがあなたがたを愛したように」には、あなたがたのために命を捨てることだということがわかる(ここでの「捨てる」は「ささげる」と解するべきだろう)。
 この「愛」について、使徒ヨハネの手紙は、別の角度からも説き明かしている。1ヨハネ書4章10-11節でる。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。イエスの愛の背後に父である神の愛があることが明らかにされている。もとより、イエス自身が語っていることである。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15・9)と。父である神-御子イエス-弟子(我々)の間での愛に満ちた交わりが幾重にも、そして双方向的に語られるのがヨハネ福音書とヨハネの手紙である。
 このような愛が今もいつも、とくにミサの中で生き生きと交わされている。交わりの儀はこの愛で満たされ、聖体というかたちで、じっさいに我々の心と体を満たすものとなる。聖木曜日、主の晩さんの夕べのミサで奉納の歌として歌われる「いつくしみと愛があれば、どこにでも神はそこにおられる」(『典礼聖歌』321 の歌詞)」が、主の晩餐(=感謝の祭儀=ミサ)が互いに愛し合いなさいの実践であることを生き生きと伝えている。それは、「愛」を「平和」という視点から語っているものといってもよい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 信仰の観点から
 先ほどの神義論のアポリアがあるのは確かですが、信仰者として神の愛を信じ続けることが何より大事だと思います。苦しんでいる当事者が信じられないのは仕方ありません。その人がどこかで神の愛にたどり着くしかありません。厳しいのですが、本人が気づくしかないのです。
 だからこそ、支後者は自分の信仰にしっかりと立っていることが何より肝要です。あくまで神の愛により頼んでいくだけです。いつも神の愛を語り、神の愛に基づいて行動し続けることです。自分の信仰を絶えず深め神の愛を信じ続けていく中で、最終的には神の愛がすべてに勝つのです。

英 隆一朗・井貫正彦 編『こころを病む人と生きる教会』「第13章 こころの闇をかかえる人とどのようにかかわるか」

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