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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年6月19日  キリストの聖体 C年 (白)  
すべての人が食べて満腹した (福音朗読主題句 ルカ9・17より)

パンと魚を弟子たちに渡すイエス
柱頭彫刻
フランス ピュイ・ド・ドームのサン・ネクテール教会 12世紀

 柱頭装飾の浮彫りとして描かれた、イエスと弟子が身を接している場面。イエスの左手、弟子たちの手でパンを持ち、その前には魚の載った器がある。これは、言うまでもなく、福音朗読箇所ルカ9 章11節b -17節が伝える、イエスがパン五つと二 匹の魚で五千人もの人々を満腹させ、そのパンの屑が十二かごもあったというエピソードを表す図像である。これと同様の出来事は、他の三つの福音書も伝えている(マタイ14・13-21、マルコ6 ・30-44 、ヨハネ6・1 -14)。パンについて言えば、イエスがそれを手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え(または感謝の祈りを唱え)、裂いて与えた、という動作が印象深い。この動作は、最後の晩餐でも行われる(マタイ26・26; マルコ14・22; ルカ22:19 参照)。
 そして、このような動作で行われる食事は、初代教会において「主の晩餐」または「パンを裂くこと」と呼ばれる典礼の源となり゜現在の感謝の祭儀(ミサ)に至る。「パンの増加の奇跡」とも呼ばれるこの 五千人への食べ物の提供が、キリストによる救いの恵みの限りなさを示すと同時に、この恵みを今もいつもあかしし続ける教会のミサにとってもその本質を象徴する出来事であるといえる。
 この奇跡はまた教会の姿、イエスに従い、イエスとともに働く使徒、ひいてはキリスト者全体の姿を示している。イエスはパンを裂いてそれを「弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9・16)とある。「渡しては」という表現には、「渡す」という行為の継続的反復の意味が入っている。人々の必要としているものを主イエスは“絶えず”満たすことが示される。そして、残ったパンの屑が十二かごもあったという(ルカ9・17)。これはこの食べ物の提供という恵みが人々の自覚する飢えを超えるほどの恵みであることを暗示している。「渡しては……配らせ」というイエスの行為は、民が必要としている以上にも満たすという恵みを示す意味も出てくる。そして、この恵みを主からから受け取り、一人ひとりの人に手渡していくのが弟子たちの奉仕である。この柱頭彫刻の場合、イエスの顔と、使徒たちの顔が明確に並んで描かれていることに、イエスとともに奉仕する使徒の存在と働きが、より強く映し出されている。ここに教会の姿がある。
 特に、この柱頭彫刻の場合、イエスと使徒たちの眼差しはこれを真正面から看る者に向いている。もちろん、柱頭という高い所にある図像なので、これを正面から見ることのできる人は限られていただろう。しかし、作者の意図は、パンの増加の奇跡を三人称的に客観的に描写するのではなく、そこにいるイエスと使徒たちの態度や行為、そしてなによりもその力強い眼差しを、現在の我々に向かうものとして感じとり、また描くことにあったに違いなさい。この部分にいるイエスと二人の使徒の眼差しは、この奇跡の意味を、しっかりと我々に問いかけている。
 さて、「キリストの聖体」と日本で呼ばれている祭日の元来の呼称(ローマ・ミサ典礼書規範版)は、「もっとも聖なる、キリストの御からだと御血の祭日」である。きょうの第1朗読と第2朗読は、このキリストの御からだと御血になるパンとぶどう酒の意味を説き明かす箇所が配分されている。第1朗読は創世記14章18-20節からアブラム(後のアブラハム)、祭司にして王であったメルキセデクがパンとぶどう酒を贈り物として与えるときの祝福のことばである。神への賛美とアブラムへの祝福のしるしとしてささげられるパンとぶどう酒のうちに、すでにキリストの体と血があらかじめ示されているという救済史的解釈が映し出されているのである。第2朗読は一コリント書11章23-26節、いうまでもなく、イエスによる主の晩餐、すなわち教会の行うエウカリスティア(感謝の祭儀/聖体の秘跡)の制定を伝える箇所である。そこでも「感謝の祈りをささげて」パンを裂くこと、杯にも同じようにして、弟子たちに渡して飲ませることが描かれている。このような感謝の祈り(あるいは賛美の祈り)に包まれるパンとぶどう酒の杯が、キリストを通してもたらされた神の恵みのしるしとなって、現在に至る。
 そういう意味では、「キリストの聖体」の祭日は、感謝の祭儀の恒常的な本質に関するものであって、その意味合いは一年の一つの祭日だけに尽きるものではない。ある意味で、聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサで一年に一度大きく記念された主の晩餐の制定を、復活節が終わった後にもう一度祝うことで、「年間」というこれからの教会の日々に聖体としてともにいるキリストのことを心に刻んでいくことになる。
 我々を真正面から見つめ、祝福のしぐさとして右手の指を差し出すこの柱頭彫刻の中のイエスは、ミサの中で我々を呼び集め、聖体として我々と交わり、そして派遣する主キリストをよく描き出しているものといえよう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

血縁を超えた家族づくり
 そのような文脈で見るならば、イエスの「神の国運動」は、言うなれば「一緒ごはんによる家族づくり運動」にほかなりません。イエスは、人類が本来的な人間関係を取り戻すための、「血縁を超えた家族」のモデルを提示し、実践していたからです。
 福音書には、さまざまな人々と一緒に食事をしているイエスの姿が、印象深く描かれています。マルコによる福音書を見てみましょう。

晴佐久昌英 著『福音家族』「3 イエスの『一緒ごはん』」本文より

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