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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年7月3日  年間第14主日 C年 (緑)  
わたしは、イエスの焼き印を身に受けている(第二朗読主題句 ガラテヤ6・17より)

聖パウロ
モザイク 
イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀

 きょうの福音朗読箇所はルカ10章1-12節、17-20節(短い場合は10・1-9)であり、イエスが72人の弟子を任命してすべての町や村に二人ずつ派遣したときの教えが主要内容である。特にその宣教が「この家に平和があるように」とあいさつするように指示し、「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる」(6節)と告げる。イエスが弟子たちを派遣して行われるところの宣教の中心メッセージは「神の国はあなたがたに近づいた」(9節)であるが、そのことが“平和”をもたらすことである、というところに主題が置かれている。テーマ的関連から配分されている第1朗読箇所(イザヤ66・10-14c )にも、「見よ、わたしは彼女に向けよう。平和を大河のように……」(12節)が主題句にも掲げられており、きょうの福音と旧約を結ぶ軸が「平和」にあることがわかる。
 さて、表紙絵は、第2朗読箇所ガラテヤ書6章14-18節にちなんでパウロを描き出すモザイクを掲げている。大きな場面の一部だが、パウロの協働者であるシルワノとテモテ(一テサロニケ書1・1参照)に巻物を渡す場面であるという。いずれにしても、宣教者としてのパウロの姿を大きく画像にとどめている。
 朗読箇所はガラテヤ書の結びにあたる。この書簡はパウロ自身が自らの生涯体験に触れ、また当時の使徒たちの宣教の様子とその中での自分の主張を明確に告げるところ、また「信仰によって義とされる」といういわゆる信仰義認論、そしてキリスト者の自由といった極めて重要な神学的テーマに触れるものである。年間主日のミサの第2朗読としてはC年の年間第9主日から第14主日まで6回配分されているが、今年は先週の第13主日ときょうの第14主日だけになり、接点が少ない。とても重要なガラテヤ書の箇所がその年によってはあまり朗読されない主日に割り当てられているのは残念なことである。したがって、きょうのような結びの箇所が朗読される日にガラテヤ書全体に目を向けることも大事であろう。少し思い巡らしておきたい。
 この6章14-18節では、パウロの使徒としての自覚が明確に告げられる。主題句にもなっている「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」(17節)、そして、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対して、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)といったことばである。このような言い方で、十字架のキリストに自分が深く結ばれていることを告げ、さらに「焼き印を身に受けている」ほど、つまり奴隷としてイエスに従属しているといった比喩表現での強調になっている。
 これらのことばはガラテヤ書2章19-20節のことばと直結している。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。ユダヤ人の律法の専門家でもあったパウロがイエスとの出会いによって、イエス・キリストへの信仰へと回心したことが「キリストがわたしの内に生きている」という実感をもって語られる。難しい概念である「義とされる」も「自由」も、この一言によって意味が尽きているように感じられる。
 イエスの生きているときにたくさんの弟子たちが派遣され、その際に語ったとされるイエスの教えがきょうの福音で読まれるとするなら、パウロが語ることばは、その教えを体現した使徒としての確信に満ちたものといえるだろう。
 表紙絵の中のパウロも、その信仰の確信が静かに伝わってくる。深く物事を見つめる鋭い眼差しが印象的である。協働者に手渡そうとしている巻物は、神のことば、イエスの教え、福音、そのすべてを象徴していよう。ひときわ大きく広く描かれるパウロの額は、彼のもっている知識、神に照らされた知恵を象徴している。
 ちなみに、きょうの箇所の中には、キリストの十字架を身に受けて生きていくこと、キリストがわたしの内に生きることの意味を別なことばでも表現している。それは「新しく創造されること」(ガラテヤ6・15)である。この原理に従っていく人の上に(つまり新しい神の民の上に)に「平和と憐れみがあるように」(16節)とパウロは祈っている。この「平和」という句で、きょうの福音朗読と第1朗読を貫くテーマが鮮やかに結びついてくる。「平和と憐れみがあるように」という祈り、そして最後の「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにあるように、アーメン」(18節)といった祈りは、我々のミサの祈りの中に、脈々と受け継がれている。我々も使徒の信仰意識の中で呼吸し、祈っているのだと感じられてくる。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

第一部(1・10~2・21)
 パウロは、この人たちが初めから問題にしていなかった異邦人への宣教を、ゼロからほとんど一人で始めました。それだけでも大変なことなのに、それに加えて、律法にこだわるユダヤ教からの改宗者との関係で非常に苦しまなければなりませんでした。
 ガラテヤやコリントの教会が、やっと軌道に乗り始めたちょうどそのときに、エルサレムから乗りこんできたのがこの人たちです。彼らはまず、パウロは使徒ではないと追い落としにかかり、律法の細則を守れと言ったり、割礼を強制したりして、さんざんにかき回しました。それを知ったパウロは、苦しみ抜いた未にガラテヤやコリントの教会へ手紙を書いたのです。

オリエンス宗教研究所 編『初代教会と使徒たちの宣教――使徒言行録、手紙、黙示録を読む』「第7講 ガラテヤの信徒への手紙」本文より


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