2022年8月7日 年間第19主日 C年 (緑) |
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ11・1) アブラハムへの約束(創世記15・12-16参照) 創世記ウィーン写本挿絵 ウィーン オーストリア国立図書館 6世紀 アブラハムに神のメッセージが降る場面がきょうの表紙絵に掲げられている。これは、第2朗読箇所ヘブライ書11章1-2、8-19節に信仰者の模範としてアブラハムが言及され、想起されていることにちなんでいる。 福音朗読箇所ルカ12章32-48節そのものの主題は、主題句が示すように「あなたがたも用意していなさい」である。一つの譬(たと)えが述べられ、婚宴から「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(37節)として、弟子たちに「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(40節)と諭し、呼びかけるイエスのメッセージが中心である。 このようなメッセージが他の日にもテーマになっているのを思い起こさないだろうか。待降節第1主日にA、B、C年ともにある、「目覚めていなさい」という共通のメッセージと通じているのである。ちなみにルカ福音書で待降節第1主日(C年)に読まれた箇所は、ルカ21章25-28、34-36節であり、終末における人の子の到来のときに、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)と告げられるところである。これらを通して、キリストの弟子となること、キリスト者として生きること、そこに貫かれるべき姿勢が明らかにされている。 そのような福音朗読箇所を照らし出すために選ばれているのが第1朗読、知恵の書18章6-9節で、この中では神の民イスラエルのエジプト脱出のとき、先祖たちが神の救いを待っていたことを思い起こさせる。第2朗読箇所ヘブライ書11章1-2、8-19節は、この日から年間第22主日まで続くヘブライ書11-12章からの準継続朗読の最初にあたる。準継続朗読的に選ばれているとしても、この日のヘブライ書の箇所は、見事に福音-旧約の主題とも合致している。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11・1)という冒頭の教えの具体例としてアブラハムの生涯のさまざまな出来事を思い起こさせる。創世記12章、13章、15章、17章、18章、22章などに関連する内容である。そして、強調するのは「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」(ヘブライ11・10)ことである。この神の都の待望は、福音書的にいえば、神の国を待ち望むことである。それを待ち望みながら、神のことばに従って生きた、信仰の模範としてアブラハムは語られる。そして福音書では、イエスが弟子たちに、人の子の到来、つまり神の国の完成のときへの「用意」「目覚め」を求めるのである。 表紙絵は、創世記15章12-16節のところにあたる。そこで、主のことばは、アブラハム(この段階ではアブラム)の子孫であるイスラエルの民が異邦の国で寄留者となって、四百年の間奴隷として仕え、苦しむことを予告する。エジプトでの寄留と隷属、そしてそこからの解放の予告である。この内容が第1朗読の内容ともつながってくる。このことばの前に、アブラハムの子孫が増えることが約束され, 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる」(創世記15・5)と約束されている。 もちろん、これはまだ実現していないことであり、この段階では「見えない事実」であり、これを信じたアブラハムが「望んでいる事柄」である。しかし、このことを神の約束として、しかも、神の約束であるから必ず実現すると信じるアブラハムは、そのことによって主から「義」と認められている(15・6)。ここにこそ信仰の姿、信仰をもって生きることそのものが示されている。義と認められるのは、現在のあり方ではなく、神のみが導かれる未来に向かっていく姿勢であることがわかる。それが「信仰」と呼ばれている。これがイエスの教えの中で、いつ来るかわからないが、いつか必ずやって来る人の子、つまり救い主キリスト自身を迎えるために目覚めて用意している生き方ということになる。この教えだけとらえると、主キリストに仕える僕(しもべ)の生活教訓というだけで受けとめてしまうかもしれないが、その根底には、神に呼び出され、約束を受け、導かれてきた民の歴史がある。そのような歴史的な奥行きを、きょうの第1朗読と第2朗読は教えてくれる。 表紙絵における神の手と、アブラハムの間に広大に広がる赤紫色の空間、そこには、まだ実現していないが、信仰のうちに待ち望まれる、神の国の完成のイメージが込められている。神の手とアブラハムの眼差しを見つめていく中で、信仰とは何か、希望とは何かということが無言のうちに伝わってくるようではないだろうか。 |