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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年8月14日  年間第20主日 C年 (緑)  
わたしには受けねばならない洗礼がある   (ルカ12・50より)
 
オリーブ山での祈りと逮捕(ルカ22・39-53参照)
オットー3世朗読福音書
ドイツ ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀末

 きょうの福音朗読箇所、ルカ12章49-53節は、先週の福音でのイエスの教えにすぐ続く箇所であるが、そこでは弟子たちの生き方、姿勢についての教えがメインであったのに対して、きょうの箇所は「わたしが来たのは」何のためかが主題となっている。それは、ある意味でショッキングな打ち明けでもある。「わたしたが来たのは、地上に火を投じるためである」(49節)、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)--火を投じることも、分裂させることも、ここでは、イエスに従うために、つまり神の国の到来を受け入れ、そのために生きるべく信仰の決断を下すかどうか、そのことを求めて来ているのだということが明かされていることになる。
 その決断をもってイエスについていくというとき、そのイエス自身が歩んでいく道に本当について来るのかという問いかけを含んでいるのが、「わたしには受けねばならない洗礼がある」(50節)と述べて、これからの受難と十字架での死、そして復活という歩み全体に対して、「洗礼」という言葉で、通らなければならない試練という、その意味を語っている。確かに、イエスの神の国の福音は、人々の間に対立を生じさせ、ひいてはそれがイエス自身の受難へと導くことになった。しかし、それも神の計画にあることであり、それがこそが、神の御子が地上に来た目的から必然的に生まれる状況であるということになる。それは必ず通過しなくてはならない命運であることが、「洗礼」という語で表されるとともに、それがあくまで神の導きであるということもこの語から伝わってくる。
 さて、きょうの福音朗読箇所がそのような内容の教え(自己自身に対するイエスのあかし)であるために、具体的なイエスの出来事を関連づけて考えるために、表紙絵では、イエスの受難の始まりの二つの場面を描く挿絵を観賞することにしたい。まず上段の場面、ルカ福音書22章39-46節では、「オリーブ山」での祈りとして叙述されている。イエスは自分に降りかかる命運(受難)を「杯」というシンボルで語り、「父よ、御心なら、この杯をわたしたから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42)と祈る。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻ってくると、弟子たちは「悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)。それを見て、イエスは、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)と告げるのである。
 この「起きて祈っていなさい」が、先週の福音のメッセージとも重なることに注目したい。結局、弟子たちへのメッセージは根底において変わっていないということがわかる。
 ちなみに、このエピソードは、マタイ福音書26章36-46節、マルコ14章32-42節にあり、そこでは、祈った場所はゲツセマネとされ、ここでの祈りも「ゲツセマネの祈り」として知られ、画題としてもこの呼び名で知られる。マタイ(26・43)、マルコ(14・40)では弟子たちは「ひどく眠かったのである」とし、イエスのことばも叱責や失望が感じられるのに対して、ルカの「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)という言い方は、やや解釈と弁護が含まれている。読み比べてみると興味深いだろう。この上段の絵では、祈るイエスと弟子たちを諭すイエスが二通りに描かれている。弟子たちの先頭でイエスと対話しているのはペトロであり、マタイ、マルコに沿ってペトロにイエスが語りかけたというところを描いていることがわかる。
 次に下段の逮捕の場面を見てみよう。多くの人がいるが、それぞれの表情はさほど感情的には描かれておらず、だれもがイエスのほうに眼差しを向けている。特に印象づけられるのは、「十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようと近づいた」(ルカ22・47、他並行箇所参照)にあたる描写で、この絵ではユダの姿がすっぽりとイエスの身体の輪郭の中に包まれている。むしろ接触して一体化してようにも見える。愛による一致を意味する接吻がまさしく裏切りのしるしとなったという逆説的な事柄がこのような描写で味わえるようになっているのではないか。もう一つ、(画面に向かって)左側には「そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」(ルカ22・50)にあたる描写がある。しかも、切り落としたのはペトロだという解釈がここに入っているようである(白髪、白髭がペトロのしるし、上段の絵参照)。イエスの歩みは、弟子たちの間で信じて従おうとする人、裏切る人の分裂を生み、やがて、弟子たち皆がイエスを離れるというほどの事態に至る。まさしくイエスは、地上に火を投じている。イエスがもたらす平和は、神の国の平和であり、それをあかしする福音宣教は、必然的に分裂や試練・精錬を伴うことになる……信仰をもって生きる生き方のもつ、厳しい側面をイエスはことばと自身の生き方をもって示そうとしている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

人間の使命
 またエレミヤは、「町の平和を求め」(29・7)と言います。ここにいる聖書の中の人たちは、自分が好きでバビロンに来ているのではありません。連れてこられてしまったのです。しかし、自分が今、立っているところ、それがどこであったとしても、そこの平和を願い、そこで、平和への努力をしなさいと言っています。全世界が平和になるために働くことも大切ですが、今、自分が立っているところの平和を築き上げようとして、実際に汗を流すことを聖書は勧めました。そのようにして、自分たちが支えられる地域共同体を作っていけということを語っています。そして、偽預言者や占い師にだまされるなということを言っています。

星野正道 著『崩壊の時代に射す光――ヨブとミツが立つ世界の中で』「3 夢から覚める」本文より

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