2022年8月15日 聖母の被昇天 (白) |
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます (ルカ1・46-47より) 神の母聖マリア モザイク ウクライナ キーウ 聖ソフィア教会 11世紀 今年2月24日に始まったロシアのウクライナに対する軍事侵攻によって、ロシアとウクライナの違い、ロシア語とウクライナ語の違いが知られるようになり、ウクライナの首都キエフ(ロシ語読み)も「キーウ」と呼ばれるようになっている。参考文献の一つ『ロシア美術史』(A・I・ゾートフ著、石黒寛・濱田靖子訳、美術出版社、1976年)が物語るロシア美術史の概説も、現在のウクライナとロシアの問題を踏まえて見ていく必要がある。その冒頭では、早速「ロシア美術の起源は、ドネストル川(ウクライナ南部)の東方で、原始共同体の下で生活していた東スラヴ族の美術作品に求められる」と述べられている。現在のウクライナは、中世において「ルーシ」と呼ばれていたロシアの文化と国家の源流で、9世紀末に東スラヴ種族連合を基礎として成立した統一国家(キーウ国家、ルーシ国)が後のロシアの元祖となる。そのキーウ国家時代を代表する建築物が、ヤロスラーウ賢公(在位1019-54年)の創建になる聖ソフィア教会である。この国家の中央集権的秩序理念を表現する記念碑的聖堂である。 その壁面にモザイクで描かれている聖母マリア像がこの表紙絵作品である。両手をあげ、古代のカタコンベの壁画に見られる「オランス(祈る人)」の型によるマリア像である。その風貌、輪郭線のはっきりとした姿には、この聖堂とそれを造ったキーウ国の力強さが反映されているのだろう。 マリアが両手を挙げているその上には、マリアのイコンの定型要素であるモノグラム(文字略記)「ΜΡ ΘΥ」が記されている。これは、「神の母」のギリシア語メーテール・セウー(ΜΗΤΗΡ ΘΕΟΥ)の二語それぞれの初めと終わりの文字を合わせたものである。なによりも背景を満たす黄金色が印象深く、神の栄光、天の栄光に満たされるマリアの姿を浮かび上がらせる。その上着(マント)も同じく黄金色で神に近い方となっていることが示され、その内衣の濃い青色は、言うなれば人間の側からこの天に引き上げられた存在であることのしるしなのであろう。地上を生きた人間としての実在感、そして、衣が暗示する神の救いの計画、その秘められた計らいの深さがともに示されている。 さて、この祭日の主題である聖母の被昇天とは、一言でいえばイエスの母聖マリアが人生を終えてから、魂も体も天に上げられたとするカトリック教会の教理である。東方教会では、7世紀の初めから、8月15日にマリアが死の眠りについたことを記念して祝うようになり、やがて天に上げられたことの祝日となる。西方教会でも7世紀末以来、マリアが死の眠りについたことを記念する祝日(ドルミティオ)が祝われているが、それが8-9世紀から東方と同じように天に上げられたことの祝日(アスンプシオ)となる。 その一方で、西方では中世を通じて神学者たちの間で、マリアの体も天に上げられたのかどうか議論が繰り返され、16世紀にはマリアは魂も体も共に天に上げられたと、一般に認められるようになる。19世紀から20世紀にかけてマリア崇敬の信心が盛り上がり、その実りとして1950年11月1日、ピウス12世の教皇令によって「マリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂ともに天の栄光に上げられたことは、神によって啓示された真理である」と宣言された。きょうの集会祈願の「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました」という部分は、そのようなマリア理解が簡潔に示されている。 現在の聖母の被昇天の聖書朗読は、被昇天を単に生涯が終わったあとの出来事としてだけでなく、三つの朗読(黙示録、1コリント書、ルカ福音書)を通して、マリアの生涯の意味を救いの歴史全体の中で黙想するよう導くものとなっている。 とりわけ福音朗読箇所ルカ1章39-56節は、マリアのエリサベト訪問の場面。エリサベトの祝福のことば(アヴェ・マリアの祈りのもととなっていることば)と、それにこたえるマリアの賛歌(教会の祈りの「マリアの歌」)を内容としている。その時点(イエスの誕生の前)では、予告的に告げられているところにすでにすべて言い尽くされているともいえる。エリサベトのことば「あなたは女の中で祝福された方です」(42節)、「主がおっしゃったことは必ず実現する信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)、マリアのことば「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(48節)。この「祝福された方」「幸いな者」ということばのうちに、既に神に受け入れられ、天に上げられるということが含まれている。教会は、マリアが生涯をとおしてそのような方であったことを信じ、ここでの予告のことばは同時に完成の証言であるものとして「アヴェ・マリアの祈り」を唱え、「マリアの歌(マニフィカト)」を晩の祈りの福音の歌として歌う。それは、もちろん、自分たちの信仰の生涯にとっても、それが予告と約束のことばであり、また、終わりのときには完成の証言と称賛のことばとなるように願うからである。 このマリアの賛歌に示される救いはイエスの生涯によって実現される。イエスなしにマリアはマリアではなく、つねにイエスと結ばれていたマリアの生涯であったことが伝わってくる。その生涯が完成されたこと、すなわち神によって全面的に受け入れられ、迎え入れられたことをマリアが天に上げられたこと、つまり被昇天と考えるのであり、それは、このモザイクのようなオランス(祈る人)としてのマリア像のうちに、すでに十二分に含蓄されている。そのマリアは、「その信仰と愛においては、教会の典型、もっとも輝かしい模範として敬われ、カトリック教会は聖霊に教えられて、マリアをもっとも愛すべき母として孝愛の心をもって敬慕するのである」(『教会憲章』53)。 |