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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年9月4日 年間第23主日 C年 (緑)  
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない(ルカ14・27より)
 
イエスの十字架への道
エグベルト朗読福音書挿絵
ドイツ トリール市立図書館 980 年頃
 
 きょうの福音朗読箇所ルカ14章25-33節に関連させてイエスの十字架への道を描く挿絵を観賞したい。
朗読箇所の中の「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・27)から連想してのものである。挿絵が描くのは、「シモンという名前のキレネ人(イエスの十字架を運ばせたと福音書が記す場面である(マタイ27・32;マルコ15・21;ルカ23・26)。挿絵の下の場面は、両側の十字架に二人の強盗がつけられていることに基づくイエスの死の場面(マタイ27・38;マルコ15・27;ルカ23・33;ヨハネ19・18)である。
 このように、イエス自身の十字架への道を思うことで、きょうの福音のイエスの呼びかけをさらに深めたいと思う。イエスの呼びかけにある「十字架」とは、何を意味しているのだろうか。弟子に向けて、我々一人ひとりに向けて、それぞれの人生に必然的に伴われることになる苦難を意味する隠喩なのではないだろうか。イエスは、“あなたにとっての十字架が何であるかを考えてみなさい。そして、それを背負って、わたし(イエス)について来きなさい”と問いかけているのではないか。「十字架」という語には、当然に、イエス自らが担い、つけられることになる、その受難の全体が予示されている。同時に、「十字架」には、たとえそれを各自が一人で担わなければならないものであるにしても、それはイエスがともに担ってくれるものなのだ、という暗示も感じられる。それは、イエスについて行く道の象徴である。あなたにとっての十字架とは何か?――これは、神のみ旨に対する問いかけにほかならない。そのような神への問いの中にある人の思いをきょうの第一朗読箇所、知恵の書9章13-19節(ソロモンの祈りとされる)が代弁しているかのようである。「神の計画を知りうるものがいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか」(13節)と。
 さらに、十字架を背負ってイエスに従う道の厳しさは、一方で、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」といった家族よりも、自分の命よりも、何よりもイエスに従うことを優先させるように(ルカ14・26参照)との呼びかけ、そして「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしたちの弟子ではありえない」(ルカ14・33)という呼びかけにまで極まる。この要求の厳しさは、一切、解釈を受け付けないほどのものだろう。しかし、この厳しい求めは、後の時代に、信仰者が迫害を受けて、家族からも離され、すべての物を奪われ、自由さえも奪われたとき、力強い保護と導きの力となったのではないだろうか。さらに、後に現れる修道者たちが、財産を捨て、家族とも離れ、あえて神とキリストのために孤独を選び、祈りと礼拝に専念する生涯を選ぶときの、最大の指針になっていったに違いない。
 では、社会の中で、一定の財産を所有し、管理し、家庭を築き、家族をつくりながら生きていく人々(一般市民、信徒)にとって、このメッセージは意味のないものなのだろうか。いや、むしろ、キリストに徹底して従うという姿勢の上で、キリストが求める愛の掟に従って、人との家族的な交わりを大切にし、財産をよく活用していく生き方への招きが、含まれているのではないだろうか。それがこの朗読箇所の中間にある一種の譬(たと)え、すなわち、塔を建てようとする者(ルカ14・28-30参照)、敵の軍勢を、より少ない兵を迎え撃とうとする者(14・31-32参照)の話を加えているのではないだろうか。そこで求められるのは「まず腰を据えて」考える生き方である。おそらく、家族に対しても肉親の情にとらわれるのではなく、財産に対しても執着するのではなく、すべては、神の国のため、神のことばとイエスの福音を基準として善用していく生き方が求められているのではないか。
 第一朗読の祈りは、そのような「腰を据えて」考える人の態度を、聖霊を待ち望む姿勢として表現しているように思われる。「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができるでしょうか」(17節)と。
 十字架のイメージが強烈な、きょうの福音であるが、そのメッセージは、我々の日頃の生き方、身近な事柄に対する判断姿勢にまで迫ってくる。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

十字架を背負ってついて行くこと
 イエスの要求は非常識で、愚かだとさえ思える。私たちの知恵のレベルが常識で人間のレベルにとどまっている限り、そう思われる。しかし、それが神の知恵にまで高めていただけるのであればどうだろうか。

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年)●典礼暦に沿って』「年間第23主日」本文より

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