2022年10月02日 年間第27主日 C年 (緑) |
わたしどもの信仰を増してください (ルカ17・5より) 使徒アンデレ 聖堂内陣彫刻 ドイツ ハルバーシュタット 聖母教会 1200年頃 ドイツ東部、マクデブルクに近いハルバーシュタットという町の聖母教会は、1140年頃建設された。中世の聖堂には、祭壇と会衆席の間に、その教会に属する司祭団や修道者たちの座席の空間、歌唱者席または内陣と呼ばれるものがある。その席の壁にキリスト、マリア、十二使徒の彫刻が施されており、そのうちの一つがここに示したアンデレの像である。後期ロマネスク芸術の様式を示すものといわれるが、使徒の人間的個性を表現しようとする意図が強く感じられ、近代彫刻のようにも感じられる。このアンデレの遠くを見つめているような眼差しは、どこに向かっているのか。その口は閉じているようにも、今から言葉を語りだそうとしているようにも見えて、深い余韻を味わわせる。 きょうの福音朗読箇所ルカ17章5~10節の冒頭は、使徒たちの「わたしどもの信仰を増してください」(5節)という願いである。このことばは、使徒として生きていく姿勢について、イエスが教えを述べるためのきっかけすぎないようである。これに対して、イエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」(6節)、願うことが実現されるほどになる、と答える。からし種の一粒ほどに小さい信仰、というところで、そもそも、「あなたがたに信仰があれば……」というほどの強い説示になっている(きょうの福音朗読主題句参照)。それに続く、主人と僕(しもべ)のたとえを含む話(7~10節)は、僕は、まず命じられることを果たすのが本務であり、そのことに対しては、謙遜であるように、つまり「しなければならないことをしただけです」と言えるような姿勢でいるように、という教訓になっている。弟子たちの「信仰を増してください」という願いに潜んでいる一種のおごりを見抜いている中での、弟子として仕える姿勢についての教えである。 このような教えをどのように受けとめるべきか、のヒントを与えてくれるものとして、第一朗読箇所、ハバクク書1章2-3節、2章2-4節がある。ユダ王国末期(紀元前600年頃)の預言者ハバククの書で、1章からの抜粋は、不法の横行、外国からの圧迫、高慢な者たちの所業に対して、神に助けを求める預言者の訴えを内容とし、2章からの抜粋は、それに対する主である神の答えを示す。それは、「定められた時」に、すなわち「終わりの時」に、神の救いが必ず来ることを約束するものであり、そのために、「神に従う人は信仰によって生きる」ことを求めている。 これに照らして、この福音を見ると、イエスの使徒たちに対する訓話のために暗黙の前提とされていることに気づかされる。それは、イエスのうちに救い主が来ていること、使徒たちの前に、使徒たちとともにいる、ということである。そうであることに、使徒たちが本当に気づいているのか、という問いかけがイエスの教えの根底にある。定められた時、終わりの時がイエスのうちに既に来ているのに、自分の頭や心の中で、何か別の目標を想定して、それに向かって「信仰を増してください」と思っているとしたら、それは、大きな思い違いがある。なによりも感じるべきことは、主が我々の前に、我々の中に、既におられるということであり、そこから、主の派遣に応じてなすべきことをなすことが求められているのだ、と。 イエスの受難の死と復活を体験した使徒たちは、この教えの意味を深く悟ったに違いない。そのような使徒の覚悟と心境を、第二朗読の使徒の手紙がいつも示している(きょうは、二テモテ書1・6-8、13-14)。 ところで、きょうの箇所では、「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき」と、使徒たちの存在を複数で言及するだけで、個々の使徒がイメージされるわけではないが、アンデレの像を掲げていることもあり、その個性にも注目してみたい。 アンデレは、(シモン・)ペトロの兄弟であり、ヨハネ福音書1章35-42節では、洗礼者ヨハネの弟子であったが、そのヨハネのことば「見よ、神の小羊だ」を聞いて、イエスに従う弟子となったという。そして、アンデレはペトロに「メシアに出会った」と告げ、彼をイエスのところに連れていく、というように、最初に召し出され、ペトロがイエスの弟子となるための紹介者の役をしている。このようなところから、アンデレは東方教会において「プロトクリトス」(最初に召し出された者)という尊称を持っている。ほかにヨハネ12章20-26節でも、アンデレはフィリポとともにギリシア人をイエスに紹介する役になっており、そこでイエス自身の死の予告を聞くことになる。マルコ13章3節では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネとともにアンデレはイエスの終末および来臨についての予告を聞く者となっている。アンデレの名が登場する箇所は全体としては少ないが、これらの箇所を見ると地味ながら、救い主イエスに間近で接し、その使命を深く受け継いだ使徒となっていくであろうことが想像できる。彼の宣教の生涯は聖書外典を通して伝説的にしか知られないが、X型の十字架に付けられて殉教したとの伝承はよく知られている(そこで、この型の十字架はアンデレ十字架と呼ばれる。祝日は11月30日)。 |