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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年11月20日 王であるキリスト C年 (白)  
あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる   (ルカ23・43より)

キリストの十字架への道
「黄金写本」挿絵
スペイン マドリード エスコリアル図書館 11世紀

 年間(C年)最後の主日は「王であるキリスト」の祭日。この名称のラテン語原語は直訳すると「天地万物の王であるわたしたちの主イエス・キリスト」の祭日という。この意味の一端を各年共通用公式祈願の集会祈願がまず語っている。「全能永遠の神よ、あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、すべてが一つに集められるようお定めになりました。造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、栄光を終わりなくたたえることができますように」というものである。ちなみに、試用の公式祈願の集会祈願は、C年のこの日の福音朗読箇所ルカ23章35-43節にちなんで、「父である神よ、あなたは十字架につけられたひとり子イエスを、すべての人の救い主として示してくださいました。キリストこそ、世界に平和をもたらし、人類を一つにする主であることを、きょう、深く心にとめることができますように」と、「主」という語に「王」の意味合いを含ませて語っている。
 さて、このように、イエス・キリストが天地万物の王としてあがめられる祭日にあたり、表紙絵は、福音朗読箇所ルカ23章35-43節にちなんで、イエスの十字架への道行を描く写本画挿絵を掲載している。ここでは三段階で、その道行が描かれている。その上段はただしルカではなく、マタイ27章27-31節、マルコ15章16-20節、ヨハネ19章2-3節に基づく。すなわち兵士たちが、イエスに紫(マルコ、ヨハネ)の服、または赤い外套(マタイ)を着せ、茨の冠をかぶせて「ユダヤ人の王」と揶揄し、侮辱する場面である。この上段の空間の中でイエスは真ん中にいる、真下の下段には十字架に架けられているイエスがいる。上段での揶揄される「王」としての姿は、真下の十字架を通して、実に「まことの王」への昇華されていく。とすると、上段の茨の冠をかぶらされるイエスは、まさしく、天地万物の王であるキリストの姿を先取りして写し出しているともいえる。
 中段は、シモンという名のキレネ人が十字架を担いでいく場面(マタイ27・32;マルコ15:21;ルカ23:26、ちなみにヨハネ19・17では「イエスは、自ら十字架を背負い」)。下段の十字架上のイエスを巡る場面にはさまざまな要素が組み合わされている。イエスの左右に二人の強盗が十字架につけられていたこと(マタイ27・38;マルコ15・27; ルカ23:32-33;ヨハネ19・18)が四福音書共通であることは興味深い。海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒でイエスに飲ませようとする男(マタイ27・48;マルコ15・36;ルカ23・36 ヨハネ19・29)、くじを引いてイエスの服を分け合おうとする兵士(マタイ27・35;マルコ15:24; ルカ23・34参照、ヨハネ19・24)、そして、十字架磔刑図の定型となるマリアと使徒ヨハネの姿である(ヨハネ19・25-27)。顔を隠す太陽と月についてはマルコ15章33節の「全地は暗くなり」他並行箇所が参照される。
 二人の強盗のうち一人が、信仰をもって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言い(ルカ23・42)、それに対して、イエスが「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と告げるところがルカの叙述の印象深い点である。このことばによって、十字架は神の国のしるしとなる。表紙絵には、とくにイエスと回心した犯罪人の対話をほのめかすような要素はなく、あくまで、イエスが、神の計画に従って、まさに死のうとしている瞬間を描くためののものである。しかし、上述のように、真上の冠を受けるイエスの姿が、全体として、まことの王であるイエスを物語る図として観賞させてくれるのである。
 太陽と月が顔を隠すことは、ある意味で、天地万物がいったんいのちを失い、新たに創造されることの暗示がある。またヨハネ19章25-27節によれば、母マリアに対して子が任され、子と呼ばれる弟子たちに母が与えられるというところで、新しい神の民、ひいては新しい人類の創造がなされている、と見ることもできる。犯罪人が悔い改め、信仰を示したことで、楽園に迎えられるところに、人間自身の回心による再生、新たな創造も示されている。この図は、四つの福音書が語る十字架への道を統合してみることにも、このように、ヒントを与えてくれる。
 人類史の大転換が、背景の空色(上段)、曙の光のような濃淡(中段)、そして永遠の命を象徴するような緑色(下段)でも表現されているものとしても味わってみたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

王であるキリスト
 35節で″あざ笑う”と訳された言葉の語根は「鼻」であり、「鼻をそり返す」の意味から″せせら笑う”とか″あざ笑う″の意味で用いられる。新約聖書では二回、旧約聖書でも四回しか使われないが、詩編22の8節はきょうの福音の背景として見逃せない。「指導者たち」はせせら笑って言う。「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、(彼が)自分を救うがよい」。ここでは、「兵士たち」や「犯罪人の一人」の時とは違い、イエスが三人称で呼びかけられる。

雨宮 慧 著『主日の福音――C年』「王であるキリスト」本文より

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