2022年12月18日 待降節第4主日 A年 (紫) |
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい (マタイ1・21より) ヨセフの夢 エグベルト朗読福音書 ドイツ トリール市立図書館 980 年 表紙絵は、10世紀の朗読福音書写本挿絵としてよく知られるエグベルト朗読福音書から、きょうの福音朗読箇所マタイ 1章18-24節で、ヨセフの夢に天使が現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。……マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1・20-21)と告げる場面にちなむ絵を鑑賞する。 天使は胸から上が中空に浮かぶ姿で、翼をもって描かれている。天使像にはすでにおなじみの要素だが、これは、天使が霊的な存在で身体的制約から自由であることを示すものである。それでも天使が人の姿で描かれるのは、人間に呼びかけ、神の意志を告げる人格的主体性をもっているからである。天使が右手で握る先端が十字架型の杖は、神の使いであること、キリストがもたらす十字架と復活を通してのあがないのみわざを予告するものといえるだろう。ヨセフは、まだ天使のお告げにも気づかずに静かに眠っている。これから始まるイエスの生涯の序奏としてかえって印象的である。 天使が身を浸しているような空間の緑の層は、寝具の色とも重なってヨセフの身を包み始めているようにも見える。緑は写本画ではしばしば生命を意味する。寝床の置かれる場所でもあり、建物(地上世界の象徴)の立つ地盤でもある茶色の部分の上にあって、新しい生命の始まりを告げるかのような緑の層である。 さて、「お告げ」というと、天使ガブリエルのマリアへのお告げ(ルカ 1・26-38)がすぐ連想されるが、ここの主題となっているのは、ヨセフへのイエス誕生のお告げである。それを述べるマタイの叙述は、ヨセフの心のあやを窺(うかが)わせる要素に富んでいる。聖霊によってみごもったマリアのことを表ざたにしないように、世間の反応を懸念し、ひそかに縁を切ろうとまで決心していた(マタイ 1・ 19参照)。彼は神を畏れる人、「正しい人」(同19節)であった。そして、天使は彼に、マリアを妻として迎え入れること、生まれてくる男子を「イエス」(「神は救う」を意味する名。この名は男子が救い主であることを示す)と名付けるよう命じる。これまでのユダヤ人社会にある信仰や慣習の次元を一歩も二歩も踏み越えていくようなことである。 かつて、アブラハムの召命(創世記12章、そこではアブラム)のとき、アブラ(ハ)ムがそこで、なんら言葉で答えることもせず、「主の言葉に従って旅立った」(創世記12・4)ように、ヨセフもここで、なんら発言することもなく、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(マタイ1・24)ている。ヨセフは、アブラハムと同様に、主の言葉に聞き従った「正しい人」となり、新しい神の民の父となっていく。ここで、マタイ福音書の直前の箇所1章1-17節の系図「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1節)を見ると、末尾が「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(16節)となっていて、アブラハムからの系譜、救いの計画の歴史の中でのヨセフの位置が明記されている。 マタイ福音書は、このお告げの意味を「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ書7章14節(きょうの第一朗読箇所イザヤ7・10-14に含まれる箇所)にある預言の実現であると説明し、「インマヌエル」というヘブライ語が「神は我々と共におられる」という意味であることも解説する(マタイ1・23参照)。この「インマヌエル」のテーマは、もちろん、マタイ福音書の最後に記されるイエスの言葉「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と対応し、この福音書の視点の根幹を指し示す。 イエスは神が共にいる方であることをあかしし、自ら、彼に従う民と共にいてくださる方である。この共にいる神の力を、この絵の中の天使が示しているともいえる。そして、寝床に休らうヨセフは、救いの到来がもたらす平和に既に満たされている人類を暗示するようにも見えてくる。 |