2022年12月25日 主の降誕(日中) (白) |
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1・14より) 主の降誕 フレスコ画 ジョット作 イタリア アッシジ 聖フランシスコ大聖堂下堂 14世紀初め 有名なジョットの描く降誕図。とにかく天使の数の多さが目を引く。それだけでも、降誕の出来事において神をたたえる様子が強調されている。場面としては、主の降誕の夜半のミサの福音朗読箇所ルカ2章1-14節を念頭に置くほうがよいともいえる図である。すなわち降誕の場所(小屋)の(向かって)右側に、羊飼いに声をかける天使が描かれている。ここは、2章8節で、羊飼いたちに近づく天使の様子とそのお告げ(10-12節)を思わせる。ルカでは、「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」(13節)とあるあたりについて、天の大軍を思わせる多くの天使が天上(御父である神)を仰ぎ、礼拝している様子で表しているのだろう。小屋の中に描かれる天使たちは、まさしく降誕の神秘にであい、神妙な表情をしている。天使たちの描写は、きょうの第二朗読箇所ヘブライ書1章1-6節も参照できる。「神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました」(6 節)というところである。そのとおり主の降誕は、天使たちの礼拝を受けつつ、実現されている。 飼い葉桶(大きな棺のようだが)を覗き込むろばと牛という要素もしっかりと描かれている(これについては夜半の表紙絵の解説を参照)。 西方の写本画では、羊飼いたちへの主の降誕のお告げを大切に描く伝統があり、その点はこの絵(右側)にも反映されている。が、同時に、東方教会のイコンの要素もみられる。それは、画面左下に頭を下げ沈思しているヨセフが描かれ、また、中央下には、幼子の湯浴みをする二人の女性が描かれているところである。さらに降誕の小屋を描くだけでなく、岩山が全体の背景となっている点も東方的な要素である。それは、世界全体の象徴でもある。ベツレヘムの片隅での幼子の誕生が全世界的な意味をもっていることを表現している。それは、第一朗読箇所(イザヤ書52・7-10)で告げられる「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」(10節)ことを目指している。 ちなみに、東方では誕生の場所が岩山の中の洞窟として描かれるのが慣例で、6世紀以来の定型である。ベツレヘム地方特有の洞窟住居が背景となっているようだが、直接の源は2世紀末頃の作とされる『ヤコブ原福音書』の記述にある。これには、イエスの誕生に先立つマリアの誕生からヨセフとの結婚、そしてイエスの誕生に至る伝説的な内容が含まれているが、それによると、マリアはベツレヘムの洞窟でイエスを産む。また、イエスの処女降誕を疑った女が、神に嘆願して幼子を抱き抱えると癒やされたというエピソードがある。これが、二人の女性が手伝い合って幼子を湯浴みさせる様子を描くきっかけにもなったという。 東西の伝統、福音書内外のさまざまな伝承が合成されている降誕図ということになるが、この時代(14世紀)の西方での信仰心の形として、この作品に特徴的なのは、マリアが白い布に包まれた幼子を抱き上げて真正面から見つめている、という描写である。10-11世紀の写本画などの降誕図にはない発想である。ある種、人間的な母と幼子の様子に近づけて描くようになる兆しである。もちろん、ここでは幼子の頭に光輪が描かれ、救い主である神の御子という性質を示している。そして、幼子を固く身を包んでいる布は、地上の人間の条件を受け入れ、真の人として生まれた神の御子である、というキリストの神秘を示している。 このような光景を鑑賞しながら、主の降誕・日中のミサの福音朗読箇所、ヨハネ福音書1章1-18節(長い形)の内容を味わっていこう。「言〈ことば〉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(4-5節)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(14)これら喜びの告知の反面、福音書は「暗闇は光を理解しなかった」(5節)、「世は言を認めなかった」(10節)、「民は受け入れなかった」(11節)という否定的な反応との遭遇にも目を注いでいる。神秘であるがゆえに、この降誕図に見られる、天使の賛美と礼拝、羊飼いへのお告げ、ヨセフの沈思、幼子の世話をする女性たちといったさまざまな反応や対応があれば、福音書の述べる否定的な反応もある。 その中でも、この降誕図の中心は、やはり幼子とマリアである。マリアの姿は、天の青と同じ衣をまとっている。天の恵みに満ちておられる方として、自らが救い主である神の御子の玉座となっている。 |