2023年1月15日 年間第2主日 A年 (緑) |
「”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より) キリストの洗礼 エチミジアンの福音書挿絵 アルメニア エレヴァン マテナダラン図書館 6世紀末-7世紀 表紙絵は、主の洗礼を描く東方教会の福音書挿絵である。イエスは若々しく描かれていて、胸から下を水の中に浸している。洗礼者ヨハネがその頭に手を置き、天からは神を示す右手の下から聖霊の象徴として白い鳩、さらに聖霊の放射の線が描かれている。 主の洗礼の場面の絵は、きょうの福音朗読箇所であるヨハネ1章29-34節の中のヨハネのことば「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(32節)にちなんでいる。 この箇所は、ヨハネ福音書の1章で、洗礼者ヨハネが告げる「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)ということばに続く発言である。彼は、イエスが洗礼を受けたときの霊の降下を見て、そこで、「その人(イエス)が、聖霊によって洗礼を授ける人である」こと(33節)、神の子であること(34節)を「見た」と告げる。そのような人であることの現れを知ったというところであろう。ヨハネ福音書のこのような叙述、イエスの洗礼の場面を描く絵を通して、我々は、イエスの洗礼の意味と、聖霊に満たされた神の御子のことを思うことができる。 さて、きょうは年間第2主日。この日は、典礼暦年の中での位置づけとして独特な意味合いをもっている。第2主日はどの年もヨハネ福音書が読まれるという特徴がある。A年=1章29-34節 (神の小羊イエスに対する洗礼者ヨハネのあかし)、B年=1章35-42節 (最初の弟子の召命)、C年=2章1-11節(カナの婚礼)である。これらの主題は、神の御子の栄光の現れという主の降誕・主の公現・主の洗礼を貫く主題を引き継ぐものである。『朗読聖書の緒言』(105項)が「年間第2主日の福音は、伝統的なカナの婚宴の箇所と、同じヨハネ福音書の他の二つの箇所によって、公現の祭日に祝った主の顕現との関連が保たれている」と言及しているとおりである。したがって、年間第2主日は、いわば、年間第3主日からの各福音書による朗読(イエスの宣教活動の叙述)に移行していくための切り返しとなっている。 ところで、主の洗礼についての叙述として見ると、ヨハネ福音書は独特である。洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けるという経過そのものが叙述されず、あくまでそれはヨハネが体験したこととして間接的に言及されるのみである。たとえば、マルコ1章9節で、イエスが洗礼を受けて「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」として、基本的にイエス自身の経験を読者に伝えるというタイプの叙述とは異なっている。ヨハネ福音書1章では、イエスの洗礼のことは 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)というあかしの根拠として洗礼時の聖霊降下が語られるという流れである。 イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」であることは、ほんとうは、イエスの全生涯、とくにその死と復活によって初めて全面的に明らかにされることであるが、ヨハネ福音書には、時間的経過の中でだんだんと明らかにされるというよりも、イエス・キリストとはどのような方であるか、というその本質性が最初から、そしていつも示されるという特性がある。その意味では、来週からのイエスの宣教活動の展開においても、我々は、「世の罪を取り除く神の小羊」すなわち「贖(あがな)い主」としてのイエスの歩みを見ていく方向づけが与えられることになる。 このようなヨハネ福音書のあかしの仕方と似たものを、第一朗読箇所イザヤ書49章3、5-6節が示している。それは神の救いを地の果てまでもたらす者となるよう「主の僕(しもべ)」が母の胎にあったときから定められていた、という内容を述べる部分である(49・5-6参照)。イザヤ40章から55章までの第二イザヤと呼ばれる部分の大きな主題となっている、この「主の僕」は、その時代においては、イスラエルの民を象徴する人格を意味していたと考えられるが、新約聖書においては、まさしく「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストを前もって示す象徴的存在(=予型)と見なされ、主の僕の姿は、受難のイエスの姿に重ね合わされていくことになる。端的に、ここも救い主イエスの使命全体を予告する朗読箇所であるといえる。 イエスの全生涯の意味を示されつつ、来週から、その宣教活動の展開の様子が読まれていく。 |