2023年1月22日 年間第3主日(神のことばの主日) A年 (緑) |
悔い改めよ。天の国は近づいた (マタイ4・17より) 青年像のキリスト 彫刻 イタリア ローマ国立博物館 3世紀 マタイ福音書が主として朗読されるA年の主日の聖書朗読がきょうの年間第3主日から本格的に始まる。それは、きょうの福音朗読箇所マタイ4章12-23節(長い場合)では、イエスの宣教の第一声が「悔い改めよ。天の国が近づいた」(マタイ4・17)として記されている。マタイ福音書では、実は、このことばは、イエスが初めて発するのではない。先月の待降節第2主日(2022年12月4日 A年)の表紙絵解説でも触れたように、実は同じことばをすでに洗礼者ヨハネが発しているのである(マタイ3・2)。それでも、イエスの宣教は全く新しいものとなっていく。そのことを感じ取るために、表紙絵には、青年像のキリストを描く彫刻が掲げられている。 初期キリスト教美術作品には、青年像のキリストもあれば、髭を生やした壮年像としてキリストを描くものもあるが、このようないかにもギリシア・ローマ美術的な青年像で、キリストのことを思うのは珍しいかもしれない。しかし、そこにあるイエスのいわゆる公生活の始まり、人々の前に「神の国(マタイは「天の国」と表現)の福音を告げ知らせ始める、というすべての意味での新しさを、この青年像のうちに感じ取ってみたい。 この日の福音朗読箇所は、後半に最初の弟子たちの召命(マタイ4・18-23)が述べられており、そこには、もちろん、さまざまな重要な主題が詰まっている。しかし、短い場合でも読まれる、前半の宣教開始の叙述に本来の重きが置かれている。宣教開始の前にイエスがナザレからカファルナウムに来て住んだという記述(12節)、それがイザヤの預言が実現するためであった、と述べているあたりが、きょうの聖書朗読配分上の主題句となっているのである。 その預言をマタイは次のように引用する。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(15-16節)。イザヤ書の引用であり、この句は、まさにきょうの第一朗読箇所(イザヤ8・23b~9・3)の冒頭に出てくる。「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(8・23b~9・1)。救いの訪れを朗々と告げる箇所である。その後半「闇の中を歩む民は……」に聞き覚えがないだろうか。それは、主の降誕・夜半のミサの第一朗読箇所(イザヤ9・1-3,5-6)にも含まれ、その冒頭で読まれていたのである。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(9・1)は、そこには、主の降誕のドラマの荘厳なイントロがあった。その同じ箇所が、きょうのイエスの宣教開始の出来事にも関連づけられている。イエスの生涯そのものが救いの訪れであること、そしてイエスが今、公に救いのわざを始めようとしていることを、同じイザヤの預言が鮮やかに指し示している。 このようなところに、降誕節で祝われる神秘がイエスの宣教活動の始まりと深く関連していることが、降誕節直後の年間第2主日、第3主日を通して、よく示されていることに注目したい。神が御子を世に送り、地上でマリアから幼子として生まれさせる……その意味合い、神の救いのわざとしてのその本質が、今度はイエスの行動を通して明らかにされていくことになる。きょうの後半で読まれる最初の弟子たちの召命は、イエスの宣教活動が「人間をとる漁師」(マタイ4・19)として語られ、そして、イエス自身「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(23節)と記される。それらがすべて「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」出来事であることを、きょうの聖書朗読の構成は示している。 その宣教の究極の結末は、もちろんキリストの十字架にある。そのことを第二朗読箇所一コリント書1章10-13、17節は示しており、きょうの聖書朗読は、神の子の受肉と降誕の神秘、神の国の福音の意味、そしてイエスの受難と復活の神秘という、キリストの神秘の最も重要なポイントがしっかりと含まれており、我々を深い黙想に招くものとなっている。 |