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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2023年2月12日 年間第6主日 A年 (緑)  
(最も小さな掟を)守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる(マタイ5・19より)

最後の審判
ジョット作 フレスコ画 
イタリア パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂  14世紀初め
 
 最後の審判を描き出す壮大な光景を示すジョットの作品である。玉座のキリストが最後の審判のために到来した光景、その両脇には使徒たち、そしてその上には、すでに天上の教会に集う人々の群れや天使たちがいる。イエスの足もとにあたる下側の部分は、(向かって)左側に、審判においてよい生き方を認められ、神の国に迎え入れられる人々、右側の暗い部分には、罪をとがめられる人々の光景が描かれる。中世の大聖堂の扉の上の部分にもよく造形されてきた最後の審判の絵画バージョンともいえるだろう。
 いずれにしても、最後の審判は、中世の人々にとって、身近に人生の歩み方に対する教訓を含んでいる画題として親しまれていた。ここには、神からの警告もあれば、ゆるしもある。栄光の光輪の中に座すキリストは、裁き主としての姿と救い主としての姿が重なり合っている。
 きょうの福音朗読箇所は、全体としてマタイ5章17-37節である。とても厳しい教えがイエスの口から語られる。律法や預言者の教え、その掟の一つ一つを「守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者とばれる」(19節)ということばに始まり、「裁きを受ける。……火の地獄に投げ込まれる」(22節、23節参照)という戒めのことばが続く。その響きの強さ、鋭さは、我々の心をえぐりだす力がある。ほんとうの我々の生き方の根本姿勢を問いかけ、神に向けての転換を求めているからである。
 このような裁きの様相は、この絵の(向かって)右下の暗い情景が表現している。それは、マタイ25章41-46節のすべての民族を裁くのたとえに通じる。神に求められることを果たさなかった人々に対して、痛烈に「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)と告げられるところである。
 逆に見ると、ここには、神に従う人、イエスに従う人となるための生き方についての教えが含まれている。一言でいえば、隣人愛であり、愛の掟である(マタイ22・34-40 および並行箇所参照) 律法の一つ一つを守れと、言いつつ、イエスは、律法の根底にある神の愛と隣人愛の掟を説いているとも受けとれるのである。イエスは、律法学者たちの律法に対する表面的な解釈を突き崩し、律法の根底にある、より深い、真の神の意志を明らかにする (マタイ19・1-12の離縁・結婚についての教えなども参照)。そのような神の御心の体現者としてのキリストを、最後の審判のこの図の中央にいる玉座のうちに仰ぐことができる。
 ともかくも、イエスは、強く、厳しい言葉を通して、ひとえに我々に決断を求めている。そのように、人はいつも神から決断を迫られていることを、きょうの第一朗読箇所シラ書15章15-20節が見事に告げている。「人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられている」(シラ15・17)。この根底には、神がすべてを見通し、すべてを導く方であるという信頼がある。「主の知恵は豊かであり、主の力は強く、すべてを見通される」(18節)と記されるとおりである。
 このこと自体、神秘であり、神の救いの秘められた計画に他ならない。きょうの第二朗読箇所一コリント書2章6-10節がそうはっきりと告げている。「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(一コリント2・7)。この神秘は、別な箇所では「秘められた計画」とも訳されているもので、パウロの信仰理解のキーワードの一つであり、教会でいわれる「キリストの神秘」という言い方の一つの源である。ミサで告げられる「信仰の神秘」にも結びつく。神秘であるところ、神の御子、神のみことば、神の知恵、旧約の律法・預言を完成させた、神と人類との新しい契約の仲介者であるキリストの神秘に、この絵とともに思いを巡らせたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』「年間第六主日」

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