2023年2月22日 灰の水曜日 (紫) |
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい(マタイ6・6より) 救い主キリスト イコン アンドレイ・ルブリョフ トレチャコフ美術館 15世紀初め イコンのキリストには、大きく分けると、全能者(パントクラトール)としてのキリストのイメージのものと、いつくしみに満ちた救い主としてキリストを映し出すものがあるが、表紙のイコンは後者にあたる。一部剥離もあり、背景もないなか、その姿のみが浮かび上がる形として伝わっている。このような特異な形態が、灰の水曜日の福音朗読箇所、マタイ福音書6章1-6、16-18節での印象的なことば、「隠れたところにおられるあなたの父」(マタイ6・6)を思うのに、ある意味で示唆を与えてくれるように思われる。 「灰の水曜日」の福音は、全編、イエスの教えのことばである。「隠れたことを見ておられる父」(4節、6節、18節)、「隠れたところにおられるあなたの父」(6節、18節)に心を向けるようにというところに教えの重点がある。施しや祈りや断食は人に見せるためにするものではない。「人からほめられようと」(6・2)するのでもなく、「人に見てもらおうと」(6・5、16)するのでもなく、隠れたところにおられる御父が人の隠れた行いを見ていてくれている、という事実をイエスはあかしする。イエスは、そうして、世間体、評判、見栄といった人間世界における思惑に心を縛られるのではなく、透徹した目で自分自身も世間・世界も見つめ、ただ、神のみ旨にのみ心を向け、神である御父との関係を根本に、生きていくようにと呼びかける。 そんなイエスのメッセージは普遍的である。ファリサイ派や律法学者に対する批判の話のように読んでしまうと、そこで語られる「偽善者」ということばが自分たちにも向けられていることを見過ごしてしまう。それはいま生きるキリスト者一人ひとり、いや万人に向けられていると考えなくてはならない。 その際、「隠れたところにおられるあなたの父」を、このイコンのキリストの顔(それはもちろん御父のイメージでもある)を通して思うことが大切である。「隠れたところにおられる」と聞くとき、我々はどこか遠いところを連想してしまう。「あなたがたの天の父」(1節)という言い方からも、そう連想しかねない。しかし、イエスのことばと行いは、まさに御父の姿を示している。イエスの中に御父はおられ、イエスの顔は、それ自身、御父の顔を示している。福音とは、「神の似姿(エイコーン)であるキリストの栄光に関する福音」(二コリント4・4)である。 そのような、いつくしみ深い救い主キリストについて黙想するヒントがいみじくも第一朗読(ヨエル2・12-18)で、告げられている。「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」(13節)。これは詩編などでも、繰り返される神への賛美的信仰宣言である。答唱詩編のことばとも響き合う。「神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによって、わたしのとがをゆるしてください」(詩編51・3 典礼訳)。そのような神を完全に体現する救い主キリストによって、人は「神と和解させていただき」(第2朗読 二コリント5・20)、「神の義」(同21節参照)に立ち帰ることができている。四旬節の始まりにあって、我々の回心のための呼びかけとして、神のあり方とその救いのみわざの核心が想起されている。 ところで、ミサの開祭で歌われる「あわれみの賛歌」が、昨年末(11月27日の待降節第1主日)から施行されている日本語版の新しい式次第では、「いつくしみの賛歌(キリエ)」となっている。文語のことばから口語体の本文に切り換えるにあたって、(従来の)「あわれみたまえ」が「いつくしみを」あるいは「いつくしみをわたしたちに」という文言に変えられている。上述のような詩編の神賛美の心を新しい本文で反映し、表現しているものと考えられる。このような賛歌をささげる相手である救い主キリストの姿を、このイコンとともに思ってもよいだろう。神に立ち返る回心は、神への信仰告白と賛美でもある。そのことが四旬節全体を通して深められていく。 |