2023年3月5日 四旬節第2主日 A年 (紫) |
これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け (マタイ17・5より) 主の変容 オットー三世朗読福音書 挿絵 ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀末 主の変容を描く、10世紀の写本挿絵である。四旬節第2主日で毎年、読まれるイエスの変容の出来事にちなんでいる。A年の今年は、マタイ福音書17章1-9節になる。それによると、三人の弟子(ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネ)を連れて高い山に登った(1節参照)。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。写本画は、顔の輝きを青白さで表現しているようである。左右のモーセとエリヤ(どちらがだれかは不明)の顔も同じである。このイエス、モーセ、エリヤ三者の背景が金色で塗り込められているところがとりわけ印象深い。また、イエスの真上からイエスの顔と同じ色で描かれている右手が見える。その周りを囲む図形とあいまって、神の栄光を意味し、神の働きかけが、この変容の出来事にあることを示している。マタイ福音書では、「光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」(5節)という叙述のあたりを反映する表現である。 下の三人の弟子たちの描き方であるが、マタイでは「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」(6節)とあるところ、ひとり(これはペトロ)がイエスを仰ぐような姿勢で描かれ、他の二人(ヤコブとヨハネ)が顔を下に向け、ひざまずき、恐れを示しているように描かれている。このペトロの姿勢は、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合っているとき(3節参照)、彼が口をはさんでイエスに「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです……」(4節)と言ったというところではないかと思う。そこへ、上述のように『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が聞こえてくるのである。 身をかがめている二人の弟子たちの姿も、マタイの叙述の中で重要な部分を思い起こさせる。ひれ伏し、恐れている弟子たち(6節参照)に、「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない』」(6-7節)と、告げるところである。 この「恐れることはない」ということば、変容の出来事に関してマタイだけが記していることばである。B年に読まれるマルコ(9・2-10)にも、C年に読まれるルカ(9・28b -36)にも出てこない。気になるので、調べてみると、マタイには、この「恐れることはない」がとても意味深い箇所に登場する。28章の復活の叙述である。墓に詣でた二人の女性に天使が「恐れることはない。……」(マタイ28・5)と語りかける。そして、復活のことを弟子たちに伝えようと走っていく女性たちに現れたイエスは「恐れることはない…」(マタイ28・10)と告げる。変容の箇所での「恐れることはない」は、この復活のときの「恐れることはない」にもつながっていく意味合いがあるだろう。変容の出来事自体、受難予告(マタイ16・21-28)に続く出来事であり、イエスの死と復活の予示する意味合いがあるものだからである。 もう一つ、変容の出来事は、イエスの宣教活動の始まりに位置する洗礼の出来事ともつながっている。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」(マタイ3・16)。「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(3・17)のである。洗礼に始まるイエスの宣教の生涯、その終幕(死と復活)の中間にこの変容の出来事があり、弟子たちに対する「これに聞け」という召命の呼びかけが明らかにされるのである。この召命は、第一朗読で読まれるアブラム(アブラハム)の召命を受け継ぐ、神の民の召命であることも思い起こされる。 四旬節第2主日の福音は、毎年、この主の変容の箇所であるのには、さまざまな意味合いがある。主の過越(受難と復活)に向かっていく四旬節の課題・使命を明確に示すものであり、そこには、四旬節の40日という象徴的な数字にちなむモーセとエリヤの登場もある。モーセは、荒れ野の試練のあとイスラエルの民に再び十戒が授けられる前に、ホレブの山に上り、契約の板を受け取る前に40日40夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった(申命記9・9)。エリヤもホレブで主に会う前に、み使いに助けられながら、40日40夜歩き続けてようやく主のみ前に臨む(列王記上19・8前後参照)。モーセもエリヤも主に出会うために試練を受けたのであり、四旬節第1主日の福音朗読箇所で示されたイエスの40日の試みと同様に、「四旬節」の意味が照らし出される。 |