2023年3月19日 四旬節第4主日 A年 (紫) |
キリストはあなたを照らされる(エフェソ5・14より) 目の見えない人のいやし エグベルト朗読福音書挿絵 トリール市立図書館 980年 目の見えない人をいやす出来事は、福音書の中でたびたび語られる(マルコ8・22-26、10・46-52;ルカ18・35-43;マタイ9・27-31と20・29-34、21・14)。それぞれ、イエスの行為は少しずつ違い、いやされた人とのやりとりにも特徴がある。きょうの朗読箇所(長い形はヨハネ9・1-41)では生まれつき目の見えない人のいやしが主題となっている。このうち直接、治癒行為を述べるのは、1-7節で、イエスは唾で土をこねたものを盲人の目に塗り、シロアムの池に行かせて洗わせるとなっている。そのあとは、この出来事に関する近所の人々やファリサイの人々の間での議論の様子が述べられる(8節以降)。その叙述部分は、ヨハネ福音書本文ではとても長く、9章の終わりまで続くが、朗読箇所はそこからの抜粋(13-17節、34-38節)で、イエスにいやされた人がイエスに対して「主よ、信じます」と告白してひざまずくところで締めくくられている(37節参照)。 このような目の見えない人の治癒の出来事が、イエスが神の権能を有する方、救い主であることのあかしとなっている。これは、他の福音書の同様の箇所にも貫かれているメッセージである。そして、それはイエスがやがて自分の死と復活を通して実現することになる、決定的な救いを予告する出来事(前表・予型)でもある。キリスト教美術においては、目の見えない人のいやしの場面がひんぱんに描かれてきた。それは、ラザロの復活(ヨハネ11章。来週のA年四旬節第5主日の福音朗読箇所)とともに、これらの福音朗読箇所が、古代教会において入信準備教育の中で入信の秘跡の意味を示す本文として読まれ、教えられてきたことと関連している。神のいのちの神秘への導きとなっていたのである。A年の四旬節第3、第4、第5主日は、このような入信準備において大切にされてきた箇所を受け継ぎ、現代においても、入信準備において活かされるように配分されている。 さて、エグベルト朗読福音書のこの場面の絵を味わってみよう。目の見えない人の姿は、その顔の描き方とともに、杖によっても示されている。唾で土をこねてそれをその人の目に塗った(6節参照)といった具体的な行動は描かれていないが、これは、目の見えない人の治癒そのものと、それがイエスのもつ権能によって実現したことを描き出すことが主旨なのだろう。この構図の中心をなしているのは、自分の閉ざされた目を指し示す男の手と、イエスが右手を掲げ、二本の指を向けているその手と手の呼応関係そのものである。この男の一途な姿勢と、イエスの主としての尊厳に満ちた姿としぐさが、この絵の大きな味わいとなっている。福音朗読箇所の終わりにある「主よ、信じます」(37節)という告白に至るまでの根底をなす、イエスと、いやされた男との相互の関係をこの絵の中の二人の様子を見つつ味読していくとよいだろう。 画面右側の塔の上の水盤は、シロアムの池(1節)を表している。その側には、細い塔の上に立って口から水を注ぎ出す孔雀が描かれている。孔雀は古代には不死鳥と同じように不死の象徴とされていたもので、キリスト教美術では、救いの究極の状態である、永遠のいのちの象徴となり、その孔雀が注ぎ出す水もやはり永遠の生命力を示すものとなる。上述のように、この治癒の出来事に入信の秘跡の予型を見るなら、福音箇所の「シロアムの池」はもちろん洗礼の水を暗示する。この絵の場合、塔の上に描かれているところには、黙示録にある新しいエルサレムに流れる「命の水の川」(黙示録22・1)があると考えられる。さまざまな角度から、キリストによる救いの意味を示すしるしが満載である。目の見えない人の苦難の象徴である杖も、絵画が含む意味合いの中で、十字架の予型に感じられてくる。 「主よ、あなたを信じます」(38節)、そして光の子として歩んでいっただろう。近所の人々、ファリサ派の人々の間で、すでにイエスをあかしする宣教を始めているその人である。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(第二朗読箇所冒頭 エフェソ5・8)というメッセージがここに重なってくる。 |