2023年5月14日 復活節第6主日 A年 (白) |
わたしを愛する人は、わたしの父に愛される(ヨハネ14・21より) 最後の晩餐 ハインリヒ3世朗読福音書 挿絵 ドイツ ブレーメン国立図書館 1040年頃 最後の晩餐を描く絵は、「愛する弟子」(ヨハネ)が親しくイエスの胸によりかかるところ、また一方でユダの裏切りを暗示するものが多い。その限りでは、ヨハネ福音書13章21-30節を踏まえている。この表紙絵もその一例である。きょうの福音朗読箇所は14章15-21節であるが、そこでの弟子たちへの教えがなされた晩餐の場面として、この絵が掲げられている。 絵の上に記されているラテン語の銘文は、「この方(イエス)は過越祭の食事の席に着き」といった意味。最後の晩餐は、たしかにユダヤ人の過越祭の頃に行われた食事だが、イエスは、このときの弟子たちとの食事の集いに全く新しい意味を与えた。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)は、この最後の晩餐において、教会で行われていくべき「主の晩餐」の典礼、そこで授与される聖体の秘跡を制定したことを伝えているのに対して、ヨハネ福音書は、この最後の晩餐でイエスが弟子たちの足を洗ったことを伝える(ヨハネ13・1-17)。これは、弟子たちに対して、互いに仕え合う共同体のあり方の模範を示したものである(15節参照)。そして、イエスは、ヨハネ13章の続く箇所、そして14章、15章を通して、キリスト者の生き方、信者の共同体のあり方を教えている。復活節にこれらの教えが読まれるのも、教会にとっての不変の教えが告げられるからである。 きょうの朗読箇所14章15-21節における新しいテーマは真理の霊が弁護者として遣わされるとの約束である。先週の福音朗読箇所14章1-12節の中で、鍵となる教えは「わたし(イエス)が父の内におり、父がわたしの内におられる」(14・ 10)だったのに対して、きょうの箇所(14・15-21)では「真理の霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」(17節)こと、そして、それにより「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」(20節)という関係になることが告げられる。「内にいる」という句の繰り返しが特徴で、それによって、御父とイエスの一体性、そして、それと同じように、弟子たちとイエスの一体性が将来に実現することが予告されているのである。イエスはいったん彼らの前を去るが、「あなたがたのところに戻ってくる」(18節)。その間、彼らと共にいる方、彼らの内にいる方として真理の霊(聖霊)が遣わされるというのが、ここでの教えの中心的なメッセージである。 そのような教えの展開の始まりのほうにあるイエスと弟子たちとの食事の場面がこの表紙絵の主題である。ひとまず、その構成要素の特徴を見ておこう。前列の(向かって)左端で、体を傾けて、前にいる弟子の腕と脇腹の間から手を伸ばし、イエスの正面にある器からパンを取ろうとしているのがイスカリオテのユダで、イエスの胸に寄り掛かるのが「イエスの愛しておられた者」(23節)と呼ばれる弟子がヨハネである。 イエスの大きな瞳には、弟子たちへの慈しみと、ユダが行おうとしている裏切りに対する悲しみ、それによって引き起こされる受難に向かっていく覚悟などが感じられる。イエスの位置や姿勢は、ユダの動く空間を空けている感じに見える。いわば、ユダのしたいように行わせることで、その裏切りから起こる苦難を自ら受け入れていこうとしている姿勢である。すべては神の意志、神の救いの計画によることとして。「すすんで受難に向かう」(第二奉献文のなかの文言)のである。 裏切る者がいるとのイエスのことばに弟子たち一同は強い衝撃を受け、当惑する。だが彼らの頭の位置はイエスと同等である。彼らはイエスのことばが伝わる高さにいる。それに対して、ユダはそのような予告の意味するものを関知しないかのように、自分の関心事にのみ従って、器に両手を伸ばしている。この食事がイエスと弟子たちのいのちの交わりであることが彼の視野からは外れ、食卓をともにしていながら、本当の交わりをむしろ切り裂いてしまっているといえるかもしれない。画面構成的にも、その調和を破っているように描き方に工夫が込められているようである。ちなみに、ユダが左手を前の弟子の右手と脇腹から出しているが、その弟子はペトロと推定される。これもよく考えると面白い。ペトロ自身、晩餐のあと、イエスを否認することになるからであり、このこともヨハネ13章36-38節で予告されているからである。 イエス自身は愛する弟子ヨハネに向かい、ヨハネは、イエスの姿のいわば縦の線に対して、ほとんど体を真横にしているほどである。キリストの右手は、そのようなヨハネに祝福を授けている。イエスの左手はそのように愛する弟子に食べ物を与えている。キリストと完全な交わりにあるものの姿、キリストの愛に自分をゆだねている者の姿が示されている。ヨハネの目は、正面、この絵を見る我々のほうを向いている。キリストと食事をともにするのにふさわしい心を呼びかけているのだろうか。左側のペトロとユダの重なりに目を留めるとき、この問いかけは、ふと怖いものにも思えてくる。イエス・キリストへの従順と離反は表裏をなすほどに近いものである暗示があるのだとしたら、福音書のメッセージとともに、この絵も厳しい問いかけを含んでいることになる。この食卓の光景の中に、現在のミサを中心とする教会生活の景色が浮かんでくる。我々自身が、ミサにあずかり、主の食卓をともにするとき、我々の心はほんとうにイエスに向かっているだろうか……そのような問いを含んでいるように思われる。 |