2023年6月11日 キリストの聖体 A年 (白) |
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物(ヨハネ6・55より) 十字架上のキリスト(御血を受ける教会) ミサ典礼書挿絵 スペイン ウエスカ大聖堂 13世紀年 きょうはキリストの聖体の祭日。その意味を、十字架上のイエスを描きつつ、その脇腹から教会が御血を受けるという図像で味わってみたい。ウエスカは、スペイン北東部ピレネー山脈の麓に位置する都市。ローマ時代からの都市で、533 年にカトリックの司教区が創設された。8~11世紀には、アラビア人が支配。15世紀に建設されたゴシック様式の司教座聖堂に伝わる、13世紀に作られたミサ用祈祷書に描かれている挿絵がこの絵である。部分的にはがれている部分もあるが、構図そのものの興味深さをまず見ていきたい。 十字架のイエスは、目を閉じ、身体が屈曲しているように、死せる状態で描かれている。とはいえ、その身体の白さ、優美さは何か聖なる出来事の様相が込められている。両脇にいるのは(向かって)左がマリア、右が使徒ヨハネであり、この構図は、多くの十字架磔刑図の定型となっている。ヨハネ福音書19章25-27節が典拠である。マリアの背後にはさらに二人の女性、使徒ヨハネの背後にもイエスに手を差し伸べる百人隊長らしき人物が部分的に描かれている(マタイ27・54、マルコ15・39、ルカ23・47参照)。 磔刑図には、その十字架の横木の上の部分に、しばしば太陽と月を擬人化したものが描かれる。それは、死のときには「全地が暗くなり」(マルコ15・33ほか並行箇所参照)とあるところから、地を照らす太陽や月が自らを隠しているという意味合いを表すことで導入された要素である。ただ、この絵の場合、太陽を意味する(向かって)左の図は青年、月を意味する右の図は三日月を冠にした女王のような存在で、身を隠しているわけではない。むしろ、イエスの十字架の出来事の意味を告げようとしているような存在にも見える。 もう一つこの絵にみられる特徴は、十字架の横木の下の部分に、(向かって)左には、イエスの脇腹からほとばしる血を器で受けとる白衣の女性(冠をかぶる女王の姿)が描かれて行く。その反対側の(向かって)右側では、冠をかぶり、旗を持っている黒衣の女性が、イエスに背を向けて、外に向かっている。天使が押し出している様子でもある。この二人のうち、白衣の人は「エクレシア」(教会)、黒衣の人は「シナゴーグ」(会堂)と呼ばれ、それぞれキリスト教とユダヤ教を象徴するものとなっている。 イエスの十字架上での死が(復活を経て)、人類の新しいいのちの源となったことを信じ、受け入れ、その御血を汲んで生きていく人々と、そのイエスを救い主(メシアすなわちキリスト)であることに目を背けていく人々との対比である。脇腹から血を受ける教会、というところに、アダムの肋骨から造られたエバとの対比を見るという解釈伝統もあるほどである。いずれにしても、その場合は、新しい人類の誕生、新しい民の誕生が刻まれていると考えることができる。 イエスが架けられている十字架の緑色もやはりこの絵の大切な要素である。緑は生命力のしるし、すなわち、ここでは、復活のいのちの意味まで含まれているのだろう。描かれているのはイエスの死と復活の神秘、過越の神秘にほかならない。それは、背景を埋め尽くす金色(神の栄光のしるし)と相まって、究極のきょうの福音朗読箇所(ヨハネ6・51-58)の中でイエスが告げることば「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)と響き合う。 さて、この日の聖書朗読箇所をこの絵とともに、味わってみよう。第1朗読箇所(申命記8・2-3、15b-16a)では、旧約の民の40年の荒れ野の旅を思い起こさせるところで、マナという不思議な食べ物(出エジプト16章参照)を恵まれたことを想起させつつ、民が究極的には神のことばによって生きるということの教えが告げられる。これは、聖体に対して、形ある物に目が向きがちな我々に対して、それがイエスのいう“わたしの肉、わたしの血”であること、第2朗読箇所でパウロが教える「キリストの血……キリストの体」(一コリント10・16より)であることを意識させる。我々は物を受けるのではなく、キリストとの交わりを受けるのである。聖体拝領とは、キリストとの交わりを拝領することである。それは、とても大きな決意を求められていることであることがわかる。そうしてこそ、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む物は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ6・56)が実現される。聖体の意味を十字架のイエスの姿とともに噛みしめることが大切である。 |