2023年8月6日 主の変容 A年 (白) |
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17・5より) 主の変容 朗読聖書挿絵 ギリシア アトス パンテレイモノス修道院 11世紀 8月6日に祝われる主の変容の祝日、今年は日曜日に重なり、主の祝日として主日に優先されている(『典礼暦年の一般原則』5参照)。この日の福音は、ABC各年の主要福音書に従って読まれることとなっており、今年はA年なので、マタイ福音書の変容の箇所17章1-9節が朗読される。8月6日に主の変容を祝うという慣行は、シリアの典礼から5世紀末に始まったらしい。変容の山と言い伝えのあったタボル山に関係する祭かそこでの教会の献堂式が祝日の起源だといわれる。いずれにせよ、それが900 年頃ビザンティン典礼圏で広まり、10、11世紀ごろから西方でも広まり、定着する。 変容の出来事は、どの福音書でも、ペトロの信仰告白(マタイ16・13-20/マルコ8・27-30/ルカ9・18-21)、イエスによる最初の死と復活の予告(マタイ16・21-28/マルコ8・31-9・1/ルカ9・22-27)、そして変容の出来事(マタイ17・1-9/マルコ9・2-13/ルカ9・28-36)と、同じ順序で物語られる。死と復活という出来事を姿が変わるということで示した予告的顕現といえる出来事である。 今年のマタイ福音書には、変容の叙述にも、独特な味つけがある。変容の際の顔の変化を描写するところがその一つである。マルコでは「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き」(マルコ9・2-3)、ルカでは「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(ルカ9・29)とあるのに対して、マタイでは「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)とある。マタイは姿、顔、服と、三つそれぞれについて十分に描写している。また「顔は太陽のように輝き」という表現は、マタイ13章43節に出てくる表現と似ている。それは、毒麦のたとえの説明のところで(今年は7月23日の年間第16主日の福音朗読箇所13・24-43に含まれている)、世の終わりのときの裁きに際して「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(マタイ13・43)と述べられている。顔が太陽のように輝く、という表現は、神に従う人が最後に受ける恩恵状態を意味しているように思われる。しかもそれは神の御子の特質として示されている。 さて、表紙絵は、主の変容の場面を描く朗読聖書の挿絵である。青、緑、赤、金、白など配色の豊かさが鮮やかである。イエスを中心としたモーセとエリヤという3人のいる空間と、下にいる3人の弟子たちの位置関係も見事なバランスをもち、各人物もよく描き分けられている。マタイでは、イエスは「高い山に登られた」(17・1)とあるが、ここでは、山から離れていて中空に栄光の光背の中に包まれて描かれている。すでに姿は変わっている。そして「服は光のように白くなった」(2節)とあるところ、ここでは上衣のみが白い。 光背の描き方、その色の濃淡が興味深い。中央のイエスのみの光背の濃い青、モーセ(向かって左の旧約の律法の書を抱える青年)とエリヤ(向かって右。白髪と白髭の老人として描かれる慣例がある)をも含めて三者を包む薄い青、そして 最も外側の白である。この白は「光り輝く雲が彼らを覆った」(マタイ17・5)とあるところに通じている。さらにイエスの背中の後ろで光が縦・横・斜めに交差している。その死と復活の暗示があるのではないか。 モーセとエリヤの姿が興味深い。イエスの前で少し身をかがめ、両手を差し出して、イエスに対して請願をしている。格好としては、全能者キリストに対して、マリアと洗礼者ヨハネが両側からイエスに、民の祈りを取り次ぎ、救いを願う「デイシス」の構図にも似ている。 モーセは、荒れ野の試練のあとイスラエルの民に再び十戒が授けられる前に、ホレブの山に上り、契約の板を受け取る前に40日40夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった(申命記9・9参照)。エリヤもホレブで主に出会う前に、み使いに助けられながら、40日40夜歩き続けてようやく主のみ前に臨む(列王記上19・8前後参照)。それらの出来事に際して、モーセもエリヤも主に出会えてはいるが、その出来事さえも新約における救い主の登場のための一つの予告だった。いまイエス・キリストの変容の姿において、モ-セとエリヤは、真の主に出会えている。 弟子たちの変容の出来事を前にした反応もよく描き分けられている。驚き恐れて目を背けるような反応が、中央真下のヨハネと(向かって)右のヤコブにある。そして、左側で起こっていることをしっかりと目を見開いて受けとめ、信仰を告白しているペトロの様子がある。彼らは皆、変容されたイエスに対する「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17・5)と、御父である神の宣言とその命令を受けている瞬間にいる。彼らは今、畏怖の中にいるが、やがては、主とともに恐れることなく、その使命を果たす者となっていく。 |