2023年8月13日 年間第19主日 A年 (緑) |
安心しなさい。わたしだ。恐れることはない (マタイ14・27より) 湖上のイエスとペトロ 手彩色銅版画 原田陽子(大阪教区) きょうの福音朗読箇所マタイ14章22-33節は、福音は湖上を歩くイエス、舟の中の弟子たち、そしてペトロの行動を大変ドラマチックに伝える。原田陽子氏の絵は、海の荒ぶる様子を無数の渦巻きによって強調しているが、それはまた、イエスとペトロのやり取りの持つ劇的な意味を浮かび上がらせる舞台ともなっている。 表紙の絵を見つつ、この出来事の叙述を味わっていこう。湖上を歩くイエスを見て、弟子たちがおびえ、恐怖のあまり叫び声をあげると(26節)と、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と、イエスはすぐ話しかける。すると、ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてくだい」と答える(28節)。このあと、さらに劇的な展開を遂げ、「来なさい」というイエスのことばに従って、水の上を歩くペトロは、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言う(29-30節参照)。 一連の出来事の中で、どうしてもイエスが湖上を歩くという奇跡に目が奪われる。先週の五千人に食べ物を与える話のすぐ後のエピソードであるため、連続する奇跡談として受け取ってしまいがちだが、本来は、ここにもキリストと教会の関係に対する深い暗示に満ちている。 弟子たちの乗っている舟を教会の象徴と見ると、逆風は信者たちに押し寄せる迫害の嵐であるとも考えられる。彼らを恐怖のどん底に置く嵐の中でも、主イエスは、それら地上のことを超えた方でもあり、同時に弟子たちのすぐ近くにいる方でもある。「主よ、助けてください」とペトロがすがりついた「主」の姿である。 このように見ていくと、一つの明確なメッセージが浮かび上がってくる。イエスこそ我々を恐怖から解放し、いつも「わたしだ」(わたしがいる)と言って共にいてくれる方である、そして、そのイエスに一切の恐れも迷いも揺らぎもなく、信頼し従っていくことが、我々には求められているのだろう。信者ならだれもが陥りうる危機の中で、主は安心の源である。ペトロに対する「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というイエスのことば、叱責というより、慈しみのこもった信仰への招きとして聞くべきものなのではないか。 ところで、この話は、マルコ6章45-52節、ヨハネ6章16-21節も伝えるが、マルコはちょうどマタイの記述の前半、恐れる弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)と語るところまでで終わっており、ヨハネも同様に「わたしだ。恐れることはない」(20節)と告げるところまでで終わっている。マタイ福音書が記す、ペトロがイエスに「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに生かせてください」(28節)と言うところからは、マタイだけにある固有の内容である。その意味では、ペトロをクローズアップする他の箇所(例えば、今年の年間第21主日で読まれるマタイ16章13-20節、年間第22主日で読まれる同16章21-27節)とのつながりの中で味わっていくべき箇所であろう。 もう一つ、関連させるとよいのが、ヨハネ福音書21章1-14節における復活したイエスの現れのエピソードである(新共同訳の見出し「イエス、七人の弟子に現れる」)。ペトロを先頭に漁に出かけた総勢7人の弟子たちが何もとれずにいたところ、イエスが現れて岸に立って語りかける。そのことばに従って、弟子たちが網を打つと「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。そこで、「主だ」と気づいたペトロが湖に飛び込むというくだりである。さらにヨハネ21章はその15節から19節までイエスとペトロの対話、というより、ペトロへの再度の召命の話となる。ペトロは、使徒たちの象徴、ひいては、キリスト者すべての象徴である。手を差し出すイエスに荒波から姿を起こしてすがりついている。ペトロの姿は我々の心を映し出している。 このようにして、主イエスと信者たちの関係にかかわる話が多様に伝わりつつ、その根幹にあるメッセージはきわめて明確である。 |