2023年8月15日 聖母の被昇天 (白) |
いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。(ルカ1・48より) 神の母聖マリアと御子イエス 内陣モザイク トルコ イスタンブール 聖ソフィア大聖堂 867年 トルコ、イスタンブール、すなわちビザンティン帝国の首都コンスタンチノープルの中心聖堂聖ソフィア大聖堂(イスラム支配の中でモスクに変容されていった)に残るモザイクの聖母子像である。その聖母マリアの美しさ、幼子のむしろ少年らしい、愛らしい姿も印象に残る。マリアの眼差しも幼子の眼差しも、まっすぐにではなく、(向かって)左のほうに向かっているのは、この大聖堂全体のモザイクの構成と関係しているのかもしれない。ただ、ここでは、聖母と幼子がどこを見ているか、ということ、一つの自由な黙想のヒントにしてみたい。 きょうは聖母の被昇天。その意味を考える出発点が集会祈願にある。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように」――「被昇天」の教理が意味することは前半で端的に告げられている。「マリアがからだも魂も、ともに天の栄光に上げられた」ことである。このような信仰理解をもってするマリア崇敬は、その源流をたどると、ビザンティン帝国の教会をはじめ、東方教会にある。そこでは、7世紀の初めから8月15日にマリアが死の眠りについたことを記念する慣例が生まれ、これがやがてマリアが天に上げられたことを祝う日となる。このコンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂のモザイクもその崇敬の隆盛の中で造られていることになる。 西方教会でもこれが導入され、7世紀末以来、マリアが死の眠りについたことを記念する祝日(ドルミティオ)があり、8-9世紀には、やはり天に上げられたことを記念する日(アスンプシオ)となる。その後、西方の神学者たちの間で、マリアの魂だけでなくその体も天に上げられたのかどうかが盛んに議論され、16世紀には両方がともに天に上げられたと一般に認められた。そして、19-20世紀にマリア崇敬が新たな隆盛を受けて1950年11月1日、教皇ピウス12世によってそのことが信ずべき事柄として宣言された。肉体と霊魂、魂と体を区別して考える見方に対して、マリアの存在そのものが神によって受け入れられたという、古来の崇敬内容が明確にされたものでもあった。 ところで、現代の教会が聖母の被昇天の主題をどのように捉えているかを示すのがこの日の聖書朗読である。まず第1、第2朗読で終末における神の国の完成が主題となっている。 第一朗読は、黙示録11章19節a、12章1-6節と10節abが読まれ。「一人の女が身に太陽をもとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」(黙示録12・1)という光景が読まれる。12という数がイスラエルの12部族やキリストに派遣される12使徒の数を想起させるところから、この女は旧約・新約を含む「神の民」の姿を象徴している。この女が「子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」(同12・2)というところは、人類の母エバを思い起こさせる(創世記3・16参照)。やがてこの女は「男の子を産んだ」(黙示録12・5)。この子には「神のメシアの権威」(同12・10)が現れている。すなわち、救い主キリストである。こうして神の民の歴史の中から、神の子である救い主キリストが現れたこと、太陽・月に象徴される全宇宙をも従える神の国の完成に向けて、神の民は導かれていく、という展望が示される。 第二朗読の第一コリント書15章20-27節aも神の国の完成に思いをめぐらせ、それを復活の教えに結びつけている。キリストによる支配と、最後に父である神によるその支配(神の国)の完成という二段階的な説明とともに、救いとは、すべての人が「キリストによって生かされること」と教えられている(22節)。この普遍的な救いに至るために、すでに「キリストに属している人たち」(23節)、すなわちその後の教会でいえば、マリアをはじめ、使徒・聖人たちが次に続く人たちの歩みを支えてくれているということも教えられる。奉献文の中で、全教会、生者、死者すべてを思い、聖母マリアや聖ヨゼフ、使徒、聖人たちの取り次ぎを願う祈りがここに関係してくる。 このように、第一朗読、第二朗読が終末の完成に向けての約束と希望をテーマとしているとすれば、福音朗読箇所ルカ1章39-56節は、すでに訪れている救いの喜びが前面に出てくる。マリアのエリサベト訪問の場面でのエリサベトの祝福(「アヴェ・マリアの祈り」のもととなっていることば)(42節)と、それに応えるマリアの賛歌(教会の祈りの「マリアの歌(マニフィカト)」)が内容となっているからである。イエスの誕生の前で予告的に告げられていることは、すでにすべてが実現している。エリサベトのことば「あなたは女の中で祝福された方です」(42節)、「主がおっしゃったことは必ず実現する信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)、それに対するマリアの賛歌の中の「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(48節)を通じて告げられる「祝福された方」「幸いな者」のうちに、マリアが神に受け入れられ、天に上げられるということも暗示されていると考えることができる。 教会は、マリアが生涯を通してそのような方であったと信じつつ、予告された救いの実現の証言として「アヴェ・マリアの祈り」を唱え、「マリアの歌(マニフィカト)」を晩の祈りの福音の歌として歌う。そのことが自分たちの身にとっても救いの予告と約束のことばであり、救いの実現のあかしとなるように願うからである。この賛美と希望のメッセージをもって、8月15日――戦争の記憶と平和への願いを新たにするこの日を過ごす意味はとても深い。 |