2023年8月27日 年間第21主日 A年 (緑) |
あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる…… (マタイ16・19より) ペトロに天の国の鍵を授けるイエス(部分) ペルジーノ作 バチカン システィナ礼拝堂 1482 年 きょうの福音朗読箇所マタイ16章13-20章について、新共同訳聖書では「ペトロ、信仰を言い表す」という見出しがついており、並行箇所としてマルコ8章27-30節とルカ9章18-21節が指示されている。そこで、マルコを見てみると、該当個所はペトロが「あなたは、メシアです」(マルコ8・29)と宣言した後のだれにも話すなというイエスの注意で終わる。ルカでは、ペトロの「神からのメシアです」(ルカ9・21)という宣言だけでこの部分が終わっている。マタイだけが、きょう読まれる後半の部分(16・17以下)で、特別な教えを加えている。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18-19節)。とても印象深く、また教会にとっても重要な教えであるが、難しい内容であることも確かである。 まず「岩の上に教会を建てる」は、ペトロという名がギリシア語「ペトラ」(岩)=アラム語「ケファ」に通じることから、ペトロを礎(土台)として「教会」を建てるというイエス自身の意志を告げるものとカトリックの伝統では考えられている。また「教会」(エクレシア=「呼び集められた者たち」)というギリシア語の単語が、福音書に出てくるのはマタイだけであり、しかもこの箇所と18章17節の2箇所だけであるという事実も注目されている。ちなみに、「教会(エクレシア)」自体は使徒たちの手紙の中で多く使われ、現在に至る「教会」の意味になる。しかし、このマタイの箇所のイエスのことばの中で、どのような意味合いを含んでいるのかそれも難解である。「わたしの教会」(「わたしが呼び集めた者たち」)が重要かもしれない。 さらに、この「教会」は「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」(16・19)ものであると語られる。陰府、死の力のもとにある場所も対抗できないのが教会であるとすると、ここでの教会(エクレシア)とは、地上の人々の集まりだけではない、ということになる。それが「わたしの教会」の姿だとすると、「わたしの」つまり「キリストの」教会は、死の支配よりも強いもの、死に打ち勝つほどの命の世界、つまり永遠の命の世界だということになる。そうすると、ちょうど、この「ペトロ、信仰を言い表す」の箇所の次に、イエスによる最初の受難予告、すなわち、受難の死と復活の予告が続くことが、俄然、重要になってくる。 このような文脈の展開を考慮しつつ次の19節を見ると、イエスはペトロに天の国(=神の国)の鍵を授けるとある。鍵の授与は、ここで実際に行為として描写されているわけではない。あくまで、イエス自身の意志・意向の表現である。したがって、実際にイエスがペトロに鍵を授けている光景を表紙絵作品が表現しているといしても、それは、実際の授与ではなく、イエスの思いを具象化したものにほかならない。 ちなみに、第一朗読のイザヤ書22章19-23節では、宮廷支配者であったシェブナを退け、エルヤキムの宮廷支配権を与えるという主の決意がエルヤキムの「肩に、ダビデの家の鍵を置く」(イザヤ22・22)と表されている。鍵が支配権の象徴であることを示すためにこの箇所が配分されているが、イザヤの箇所で鍵は、「閉じる、開ける」という役割で出てくるが、福音朗読箇所では「つなぐ、解く」となっているところが難しい。 それが何か、神の国に関する枢要な役割であることはわかる。しかも、地上での「つなぐ、解く」の遂行は、天上においてもそのとおり行われるという。権能における地上と天上の一致という、この考えは、主の祈りの一節「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように」を思い起こさせる。そこには、天上において神がなさることが地上を通しても実現されるよう、そして、そのように信者が神のみ旨に沿って、それに応えて生き、行動すべきものだということまで含まれているように感じられる。そのことを意識するとき、朗読箇所での「つなぐ、解く」への言及は、ペトロの特別な権能を根拠づけているというよりも、その権能と役務も、神自身が可能ならしめるものだということのほうが重要であることがわかる。それこそが、神のいのちに生きる「キリストの教会」の神秘を説き明かすものなのではないか。 そのように受けとめるとき、第二朗読箇所ローマ書11章33-36節の「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」というパウロの大きな感慨を伴うような神賛美のことばが深く響き合ってくる。 |