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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2023年10月22日 年間第29主日 (緑)  
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい  (マタイ22・21より)

当時のローマ皇帝ティベリウスの像と銘が刻まれたデナリオン銀貨  
パリ聖書博物館

 きょうの福音朗読箇所マタイ22章15-21節は、「カイサルのものはカイサルに」というフレーズで一般にも知られるほどの箇所になっている。と同時に、その「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)というイエスのことばは、その意味を巡ってさまざまな解釈があるのも事実である。
 ファリサイ派の人々の弟子たちと、ヘロデ派の人々が一緒になってイエスのところに遣わされ、そこでイエスに差し向ける質問は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(17節)である。すると、イエスは、税金を納めるためのデナリオン銀貨を持ってこさせて、「これは、だれの肖像と銘か」(20節)と問いかける。それが皇帝である、との答えに対して、先のことばでイエスは答えるのである。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
 一つの解釈は、そこで銀貨に刻まれている肖像が重要だという考え方もできる。そこで、表紙絵には、当時の銀貨の肖像そのものが掲げられている。ここでのイエスのことばを受けとめるため、その解釈説を考えるための資料として、である。この肖像と訳されているギリシア語はエイコーンで、これは像そのものである。このことをヒントに考えると、イエスの答えは、皇帝の像が刻まれている銀貨、すなわちお金は、皇帝に税金として納めるのがよい。しかし、神の像(似姿)であるあなたがた自身は、神のものであり、神に返されるべきものである……といった理解が可能である。人間が神にかたどられて造られたこと(創世記1・26-27参照)を関連づけて、神のかたどり、すなわち神の像である人間は、自分自身を神に返すべきであるというテーマに重点を移させていくという解釈である。正解かどうかはわからないが、実際に皇帝の像が刻まれている銀貨を眺めていると、とても示唆的である。
 このような像(エイコーン)への注目への関連から、キリストが神のエイコーンと呼ばれている箇所を思い出さざるをえない。二コリント書4章4節「神の似姿(エイコーン)であるキリストの栄光に関する福音の光」、コロサイ1章15節「御子は、見えない神の姿(エイコーン)であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」。キリストは、人間が神の似姿・かたどりであることとは違う意味で神の姿である。そして、人間が神の似姿であることを取り戻させてくれた、あがない主である。自分自身を神に返すべきであったとしても、罪のためにそれができなくなっていた人間の前に、再びそれを可能にするために、御子キリストは自分自身をささげられたのである。この御子に結ばれるキリスト者は、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(二コリント3・18)いく存在である。ここの「主の栄光を映し出し」の部分は、「主の栄光の映像〔エイコーン〕として」とも訳すことができる部分である。これらを踏まえて考えると、「神のものを神に返しなさい」というメッセージは、奥深く、味わい尽きない。
 マタイ22章15-21節のこの話には、1世紀末当時、強大なローマ帝国皇帝の権威への対応に苦悩していた初期のキリスト者の状況が反映しているともいわれる。地上の権威のふさわしいものを認め、受け入れ、その上ですべてを超える神の支配(神の国)を信じ、寄り頼み、その完成を待ち望む信仰者にとって、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスのことばは、たえず力になっていっただろう。現代の文脈に置き換えても、人はそれぞれの地上の国に生きており、その存在に自らを負ってはいるが、それだけでは尽きない、神の子としての自由があるということを絶えず気づかせる力がある。「皇帝」という存在が現代では、何にあたるか、現代の世界を支配する地上の権威のありようにも目を向けさせつつ、イエスのことばは、我々の現実を鋭く突いてくる。そのように考えると、日々参加し、ささげるミサは、神のものを神に返す営みであることに気づかされる。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』「年間第29主日」

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