| 2025年12月7日 待降節第2主日 A年 (紫) |
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで……(イザヤ11・1より)エッサイの樹 「フランス王シャルル5世の聖書」挿絵 スペイン ジローナ司教座聖堂 13世紀 きょうの表紙絵は、「エッサイの樹」という画題である。この図自体は聖書本文に組み込まれた挿絵であるので、少々小さくなるが、聖書の本文と挿絵部分の組み合わせに特徴があるので、一葉全体が示されている。もちろん、きょうの第一朗読箇所イザヤ書11章1-10節の冒頭「〔その日、〕エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる」(1節)がこのような画題の出発点にある。エッサイとはダビデの父の名。その家系からやがて救い主が誕生するとの預言であるこの箇所の理解が出発点にある。 新約聖書の中にも、この画題への典拠がある。イエスの誕生に向けて、この子がダビデの家系に生まれるとの天使の告知があり(ルカ1・26-38、69、マタイ1・20参照)。また、黙示録では、イエスが自分自身のことを「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(22・16)と語っているのである。 これらの言明の土台となっているイザヤ11章1節-10節の預言は、上述のような冒頭の文に続き、10節には「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」(10節)とある。直接にはダビデ王朝への期待が示されているものであるが、新約の信仰においては、これらがすべて救い主キリストを指し示す告知として受けとめられている。主キリストが再び来られる“その日”に心を向けよう、という待降節の大きな主題につながるものである。 ちなみに、きょうの第二朗読箇所は、ローマ書15章4-9節であるが、朗読箇所のあとの12節で、パウロも、イザヤ11章1-10節を念頭に置いて「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」(ローマ15・12)と告げている。 このような救いの歴史の全体を展望するように、マタイ1章1-17節のアブラハムからイエスまでの系図、ルカ3章23-38節のイエスからアダム・神へと遡る系図をヒントに、系統樹のイメージをもってキリストに至る救いの歴史を画像化するのが「エッサイの樹」である。特に12世紀以降、写本画やステンド・グラスにおいて好んで描かれた。13世紀にはマリアも加えられる。これはマタイ1章16節「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」が典拠となっている。 さて、きょうの表紙絵の図を見よう。特徴的なのは、系統樹の部分が本文の右側の下から10行目にあるリベル Liber の頭文字 L の装飾画となっていることである。頭文字装飾が挿絵の出発点にあったということがわかる例である。その系統樹の最下段にはエッサイが横たわった姿で描かれている。中央の幹と枝葉の部分には先祖や預言者たちが描かれ、上から二段目にマリア、最上段にイエスが描かれる。多くの「エッサイの樹」の絵は、キリストの上に七羽の鳩を描き、そによってイザヤ11章2節の「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」という箇所に対応させているが、表紙絵では、特にそのような表現はない。文字の上の図はセラフィム(イザヤ6・2参照)、最上段には、キリスト、あるいは父である神の図がある。翼が描かれることなどは珍しい表象といえるかもしれない。 これも珍しいことだが、本文の下に、イエスの生涯の8場面を描く円形の図が上下2段に分けて配置されている。上には降誕に関する4場面(左から、お告げをする天使、それを受けるマリア、イエスの誕生、神殿奉献)、下には受難・復活に関する4場面(左からイエスの逮捕、鞭打ち、十字架での死、復活)である。このような生涯をたどったイエスこそ、「すべての民の旗印」、すべての人の救い主であるという信仰の核心が表現されている。聖書全体に目を配った救いの歴史への展望が示されているところが素晴らしい。 福音朗読箇所マタイ3章1-12節は、最後の預言者と呼ばれる洗礼者ヨハネの登場の場面である。待ち望まれる救い主の到来を間近で迎え、あかしする使命に立っている人物である。彼は、イエスが「主の霊がとどまる」存在であることを、ここでの「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)という予告においても、またマタイ3章13-17節で述べられるイエスの洗礼の箇所(A年の「主の洗礼」の祝日の福音朗読箇所)においても、「神の霊が鳩のように」(16節)イエスの上に降って来ることが記される。救い主を主の霊を受け、それに満たされる方であることの理解と待望が、きょうの聖書朗読の根本にある。この聖霊は、洗礼と堅信を受けたキリスト者すべてに注がれており、信仰生活の不断の原動力であること。そう我々に引き寄せて考えるならば、「エッサイの樹」は、我々キリスト者自身のルーツを表現していることに気づかされる。個々人の信仰生活、信仰体験をすべて結びつける神の計画に心を開かせてくれる画題であり、絵画構成である。待降節の黙想を促してくれるだろう。 |