| 2025年12月25日 主の降誕(日中のミサ) (白) |
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1・14より)主の降誕 ライヘナウの朗読聖書挿絵 ドイツ ヴォルフェンビュッテル図書館 10世紀 二段分けの構図で、上に降誕の出来事、下に救い主の誕生を告げられる羊飼いたちを描く挿絵作品である。あたかも降誕・夜半のミサの福音朗読箇所ルカ2章1-14節の前半(1-7節)でヨセフとマリアがベツレヘムに行った経緯とそこでのイエスの誕生、後半(8-14)が羊飼いへの降誕のお告げを中心に述べているのと似ている。そのような絵ではあるが、この中世前期型の降誕図では、闇夜の誕生が強調されているわけでなく、この絵の上段の図が背景に神の栄光を示す金色で満たされている点、降誕の日中の賛美にも関連づけられることから、このミサの表紙として鑑賞することにしたい。 まず降誕の場面を描く上の部分に注目しよう。降誕図を構成する人物(幼子、マリア、ヨセフ)、定型的要素の牛とろばがいずれもはっきりと描かれているとともに、イエスが生まれた場所を洞穴や岩山として描く東方の伝統に比して、この中世前期の絵の場合、背景が厩のようではなく、しっかりとした屋根と柱を有する立派な建物で描き出すのが特徴である。これが地上世界の象徴となっているととともに、救い主の誕生への賛美的な意識をも込めている。その幼子は、絵の中心に比較的大きく描かれている。幼子や赤ん坊というよりも、すでに少年である。この御子が横たわるところに飼い葉桶のイメージはなく、実際には大きく整えられた寝台のようである。これらすべてを通して、神の御子の人間としての誕生が尊厳性への表敬を込めて強調されている。 (向かって)右側にマリアが描かれている。寝床に横たわる姿で描かれることが多いマリアだが、ここでは、(向かって)左側のヨセフと対になって、立っており、イエスのほうに両手を開いている。この姿勢の意味するものを黙想するのも面白い。御子の人としての誕生という神秘を全身で受けとめているしぐさか、この子が救い主であることを示している姿勢か……。ヨセフも同様な姿勢をとっているが、その表情は、御子の誕生の出来事に驚いている様子でもある。とはいえ、この二人の位置が背景の建物の二つの柱と重なっていて、中央のイエスに対して、二人があたかも救い主の地上世界への登場を指し示す“門”となっているように見える。たしかにマリアとヨセフは現代の我々にとっても、降誕の神秘へと扉を開く門のような存在であり続けているだろう。 さて、画面の下のほうには、三位の天使がいて、皆、下のほう、つまり羊飼いのいる場所に向かっている。「今日……あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げているところの描写である(ルカ2・8-12)。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(同2・ 14)との賛美は、天に向かっているようにも思われるが、「地に平和、御心に適う人にあれ」は、地に向かっているようでもあり、そのイメージがここでは具象化されているのかもしれない。 画面、下段の羊飼いたちは、この絵の場合、二人とも上の出来事、そして天使たちの告げることばにまなざしを向けている。天使が告げる「民全体に与えられる大きな喜び」(同2・10)を従順に受け入れている姿のように感じられよう。羊飼いたち自身は民の象徴であろうし、その間にいる羊の群れも民の象徴である。いずれにしても、この羊飼いや羊たちの空間も神の栄光を示す金色で覆われている。賛美と喜びに満ちた時の充満がここにある。 このような神の栄光に包まれて描かれる降誕の出来事を、この日中のミサの福音朗読箇所(ヨハネ1・1-18=長い場合)と重ね合わせて鑑賞しよう。ヨハネ福音書は、降誕祭が4世紀に成立した時以来、最初に出来たミサである日中のミサで読まれる福音である。降誕の神秘に対する教会の理解と礼拝の心の中心をなす福音と言ってよい。降誕祭は、神の御子の地上への誕生、すなわち「言(ことば)は、肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)という点を軸にしているからである。降誕の神秘はすなわち受肉の神秘であり、イエス・キリストがまことの神であり、まことに人であるという真実は、4世紀のニケア公会議から(325年)から5世紀半ばのカルケドン公会議(451年)までの間、一貫して追求され、守られてきた、教会の信仰の中心をなす。そして、ヨハネ福音書の告げる「言(ことば)」は抽象的なようであるが、「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1・4)と告げられているところに触れている。言(ことば)は我々の生命、そして地上を照らし、その生命活動を支える光であることに対する感覚もこの絵から受け取ってもよいだろう。 幼子の地上への誕生は、ルカ福音書がより劇的に地上の出来事としての具体性をもってあかししており、それが多くの降誕図の土台となっていることは言うまでもないが、同時にヨハネ福音書があかしする、言(ことば)の内にいのちがあり、それが人を照らす光であることへの感受性が中世前期の写本画には内包されている。降誕図があくまで明るく、色彩豊かなところに、被造物の多様性、多彩性のうちに御子は宿られた……そのことへの賛美にも誘う図像とも言える。 ヨハネの福音朗読箇所で、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1・3)、さらに第二朗読箇所のヘブライ書1章1-6節で、「神は、……御子によって世界を創造されました」(ヘブライ1・2)と証言されているとおりである。同時に、ヨハネ福音書の朗読では、「言は、世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・10-11)と語り、第二朗読のヘブライ書では、「御子は、……人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(ヘブライ1・3)と、贖いの死、その受難の死から復活、昇天までをも暗示する。これらの朗読を通じて、創造から御子の地上への誕生、その死と復活、昇天までが一挙に展望され、つまりは、救いの歴史の凝縮がこの受肉の神秘、降誕の神秘のうちに観想されている。 主の降誕の日中のミサは、聖書朗読と感謝の典礼の結びつきを通して、神の遠大な救いの計画を展望させる。神は、我々をその遠大な救いの計画への中へと、つまりその頂点であり源泉であるキリスト自身のもとへと招き入れ、またキリストを通して、現代の世へと新たに派遣される。このような救いの出来事の始まりが聖家族の交わりの中にあることで、子の神秘を親しみ易く、温かいものとしてくれるのである。 |