| 2025年12月25日 主の降誕(夜半のミサ) (白) |
今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった (福音朗読主題句 ルカ2・11より)主の降誕 「ルイ12世の時祷書」挿絵 ロンドン ヴィクトリア&アルバート博物館 15世紀末 主の降誕の夜半のミサでは、福音朗読箇所ルカ2章1-14節の中から、天使の力強い告知が21世紀の我々にも伝わってくる。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(11節)。この天使に加わった天の大軍の賛美「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)の叫びは、いうまでもなくミサの「栄光の賛歌(グロリア)」の冒頭の句になっている(式次第本文では「天には神に栄光、地にはみ心にかなう人に平和」)。我々がささげる主日、主の祝祭日のミサは、この降誕の賛美をいつも続けているとも言えるのである。 表紙掲載の絵はフランス国王のルイ12世に献呈された時祷書(邦訳は多様で、聖務日課書、時課祈祷書のことを言う)の挿絵の主の降誕図である。中世末期の時代の降誕図の代表的なタイプで、美術史的には「幼子への礼拝」(〔英〕Adoration of the Child)という画題で知られる。「幼子への礼拝」型の降誕図に関しては、フランシスコ会の霊性の中で育まれ、とりわけ14世紀の女性神秘家スウェーデンのビルギッタが1372年の聖地巡礼に際して得た幻視の記述が影響を及ぼしたものと言われる。 主の降誕・日中の表紙では10-11世紀の朗読福音書の写本挿絵の例が掲載されているが、その時代の作品のタイプと、この「幼子への礼拝」型の図との大きな違いは幼子イエスの描き方にある。10-11世紀の挿絵では、ルカ福音書2章7節の「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」という叙述を踏まえて、幼子が飼い葉桶、あるいは何かの箱か台の中や上でしっかりと布にくるまれているという描写が主流である。しかも幼子は、実際には少し大きな男子、あるいは少年とさえ見えるような描写になっている。また、その場合、幼子のいる場所を、ろばと牛が覗き込むということも非常に大きく、はっきりと描かれるのが慣例であった。 それに対して「幼子への礼拝」型の図では、一般に、幼子は裸の赤ん坊として極めて写実的に、しかも地面の上か地面の上に敷かれた布の上に横たわっている姿で描かれる。同時に、その幼子は、不思議なほどに光輝く様子が強調される。きょうの表紙絵の場合も、地面に、というよりは、より古い時代のような何かの台の上に敷かれた布の上に横たわっている。この赤ん坊から放射されている光はまばゆいばかりである。この光がこの小屋の上、天上からの光と呼応し、照らし出し合っているように描かれているところに特徴が感じられる。 そしてマリアは、赤ん坊である御子に向かってひざまずき、手を合わせて礼拝している。まさしくこれが「幼子への礼拝」である。加えて、ろばと牛は前の時代ほどは強調されなくなる。伝統に従って描かれてはいるが、暗闇と同化するほどには目立たない。ヨセフもマリアとともにあるいは対に描かれる伝統は踏まえられているが、その描かれ方は作品ごとにさまざまである。この絵の場合、小屋と外の間の場所で、明かりを携えてこの場面を照らしている。ヨセフが携える明かりもしっかりと役割を果たしているように見える。天上からの光、幼子からの光、ヨセフという地上の人間の携える光、それらの関係について黙想することは主の降誕に際して、ふさわしいことだろう。 黙想を広げるために、ろばと牛の描写の典拠となっているイザヤ書1章3節を味わおう。「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」の箇所である。イエスの誕生に関連づけて読むと、地上において救い主が人となって生まれたこと、そして、間接的には、この幼子がイスラエルの民にも、異邦人の民にも、つまりは全人類にとっても救い主とあることを知るヒントとなる預言である。 すべての人の救い主の訪れという中心メッセージは、やはりこの絵に満ちあふれている。真夜中の暗さは、きょうの第一朗読箇所であるイザヤ書9章1-3、5-6節の中の冒頭「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)とあるように、今や御子の地上への誕生とともに、光に照らされるように変わっていく。この絵では背景の群青色といえるような外の景色とマリアの衣の色が、闇と光の間の状態を表現しているのではないだろうか。かつての闇は今や光に照らされ始めている。このような点に注目して、きょうの第一朗読でイザヤ書を聴く意味は深い。 そして第二朗読箇所のテトス書2章11-14節は、すべての人のための救いの実現という主題を感銘深く告げる。「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(11節)と。重要なことは、そこにおいで「キリストがわたしたちのための御自身をささげられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖(あがな)い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清められるためだったのです」(14節)と、十字架に極まるイエスの自己奉献という、その生涯の結末が思い起こされていることである。降誕の神秘は、その奥に、イエスの贖いのための死と復活の神秘、すなわち過越の神秘をすでに含んでいる。イエスの死と復活を通して、神の救いの計画が実現されるということが、すでに御子の誕生の想起の中に含まれているのである。 裸の赤ん坊の姿のイエスの体はそのことを意味合いとして含んでいるとも言える。弱く、はかない身体に象徴される地上のいのちが、すでに神の栄光のうちに生き始めている。十字架上の死と復活の未来に、それはすでに方向づけられ、暗示している。このような降誕の神秘と、過越の神秘の相互の関連性は、主の降誕のミサそのものが、ことばの典礼と感謝の典礼との関係を通じて現在化させ、我々に想起させてくれる。その計画に従って、体現された主イエスの使命と生涯に従う者としては、我々は、新たに遣わされていくのである。 |