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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2026年1月11日 主の洗礼 A年 (白)
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17より)

キリストの洗礼
『ハフパットの典礼用福音書』
アルメニア エレバン マテナダラン図書館 11世紀
 
 きょうの表紙には、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼を描く東方教会の福音書挿絵が掲げられている。水の流れを背景に裸のイエスが立ち、その頭の上に洗礼者ヨハネが手を置いている。そこに天から鳩が降りて来ているが、それは、きょうの福音朗読箇所マタイ3章13-17節の中の16節「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」に相当する。各福音書でここの記述は少しずつ異なり、マルコ1章10節(B年の朗読箇所)では、イエスが「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあり、ルカ3章21-22節(C年の朗読箇所)では、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とある。
 いずれにしても主の洗礼の図では、イエスの頭の上に鳩が降ってくることでそれが現され、洗礼者ヨハネがイエスの頭に手を置くというしぐさが伴うのは、主の洗礼の図の基本的な描き方となっている。洗礼者ヨハネの後ろには二位の天使がいる。福音書には記されないが、このような天使の助けは、古代のキリスト教美術以来、東方の聖書写本挿絵やイコンにおいても共通の定型要素である。神の計画によってなされるイエスの洗礼という意味が明示されていると言える。
 さて、「主の洗礼」は降誕節の締めくくりとなる祝日である。降誕節を形づくる二つの祭日、主の降誕と主の公現の意味合いがこの日の聖書朗読に回帰していることにも注目したい。
 このA年の配分で見ると、第一朗読箇所のイザヤ42・1-4,6-7)は、バビロン捕囚時代の預言と考えられている部分(いわゆる第二イザヤ)で、その中に四つのある「主の僕(しもべ)の歌」の最初のものがきょう読まれるところである。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」(1節)というところで言われる「わたしの僕」はイザヤの預言の文脈では、預言者自身、あるいは神の民イスラエルを指すと考えられるが、同時に待ち望まれるメシア(救い主)についての言及と解釈することもできる。キリスト教においては、もちろん、これがキリストを前もって告げるもの(予型)と考えられて、この預言の中のさまざまな言及は、キリストの生涯、とりわけその受難の歩みを想起するために読まれていくことになる。たとえば「彼の上にわたしの霊は置かれ」(1節)もそうである。6節からはこの僕に対して直接「あなた」と呼ぶ文言となり、「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた」と告げられる。
 こうした、神から霊の授与と救い主として立てるという点が、イエスの洗礼の意味するものであるという理解の土台となっていく。とりわけ、「恵みをもってあなたを呼び」というところには、イエスが洗礼に際して、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3・16-17)と記されることを彷彿とさせる。
 イザヤ42章からの朗読箇所の末尾には、この僕を立てた目的が告げられる。「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷(かせ)から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザヤ42・7)と。この言及は、第二朗読箇所の使徒言行録10章34-38節の内容と響き合う。ペトロは、イエス・キリストの生涯を要約して言う。「神は聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(38節)と証言する。ここでの聖霊と力による「油注がれた者」(=メシア、救い主)とされたことは、イエス自身の本性に含まれることとも言えるし、いずれにしてもその洗礼の出来事がこのことを明らかにした、とも解釈できるので、きょうの主の洗礼の出来事と関連づけられて朗読されている。同時に、ペトロは、イエスの救い主としての働きに言及しており、このことが上述のイザヤの預言と重なるのである。
 このようにして、福音書が告げるイエスの洗礼の出来事のうちに、第一朗読、第二朗読を通して、イエスの救い主としての活動と生涯のすべてが想起されようとしている。このような関連性の全体を視覚的につなぐのは、表紙絵に見られる洗礼を受けるイエスの裸の姿であろう。人となられた神の御子がその生涯を洗礼者ヨハネの働きを通して、神の霊を受けて始めようとしている。このイエスの裸の体こそ十字架にはりつけにされて人類の救いのわざを成し遂げるイエスの体そのものである。この神の霊を受け、いのちの水に浸されているイエスの体のうちに、その全生涯が象徴されていると言えるのである。それは、我々自身の信仰生活にとって、その出発点であり、模範となるへりくだりの姿にほかならない。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』主の洗礼

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