| 2026年1月18日 年間第2主日 A年 (緑) |
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(福音朗読主題句 ヨハネ1・29より)洗礼者ヨハネ テンペラ画 シエナ キージ・サラチーニ宮殿 15世紀 きょうの福音朗読箇所は、ヨハネ福音書1章29-34節。その前の19節から28節では洗礼者ヨハネの登場が語られており、それに対してファリサイ派に属する祭司やレビ人たちが、彼に「メシアなのか」「エリヤなのか」「預言者なのか」と尋ねると、洗礼者ヨハネはそれを否定する。そして「わたしの後から来られる方」のことを告げるのである。続いて、きょうの朗読箇所では、イエスが自分の方へ来るのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)と宣言する。自分の後に来られる方に対して、「その履物のひもを解く資格もない」(1・27)とへりくだる姿勢を示した洗礼者ヨハネが、今や、実際にイエスの登場を告げる場面である。その中でまた、間接的に、彼がイエスに洗礼を授けたときの聖霊の降下の出来事も想起されている。このような文脈において、イエスの登場がまさしく聖霊に満ちあふれた救い主(メシア)の顕現であることが示されている。 表紙絵は、そのような救い主の到来についての決定的なあかしをした洗礼者ヨハネの半身像を描いている。彼を描くキリスト教美術は実に多彩である。その中でも、荒れ野に現れ、殉教を遂げるに至る彼の生き方の鮮烈さが表現されている。きょうの表紙絵の洗礼者ヨハネは、ある意味で、穏やかと力強さを合わせて示しているようである。漂う静謐(せいひつ)さも印象的である。内衣は「らくだの毛衣」(マルコ1・6; マタイ3・4)の雰囲気があるが、赤い外衣は、すでに聖人の輝きへの賛美があふれている。頭を囲む光輪とともに、キリストに結ばれた聖人として、すなわち洗礼者聖ヨハネとして、尊敬を込めて描かれている。 ただし、この洗礼者ヨハネの像は、彼自身を描くことだけで完結していない。彼の上半身の姿勢とその眼差しは、自身の右手(画面の向かって左)のほうに向かっている。それに対して、右手の指は、反対側のほうを少し上向きに指している。このような姿勢やしぐさについて、やはり、右手の指はイエスを指していると考えられる。そして、半身全体と眼差しは、人々のほうに向かっている。きょうの福音と合わせるなら、イエスを救い主として、つまり「世の罪を取り除く神の小羊」として、人々に示している洗礼者ヨハネの姿と考えるのが自然だろう。洗礼者ヨハネを描く絵ではあっても、根底において目に見えないかたちで描かれている主人公はイエス・キリスト自身にほかならない。 さて、きょうは年間第2主日。この日は、典礼暦年の中での位置づけとして独特な意味合いをもっている。第2主日はどの年もヨハネ福音書が読まれるという特徴がある。A年=1章29-34節 (神の小羊イエスに対する洗礼者ヨハネのあかし)、B年=1章35-42節 (最初の弟子の召命)、C年=2章1-11節(カナの婚礼)である。これについては、『朗読聖書の緒言』(カトリック中央協議会、105項)で「年間第2主日の福音は、伝統的なカナの婚宴の箇所と、同じヨハネ福音書の他の二つの箇所によって、公現の祭日に祝った主の顕現との関連が保たれている」と述べられている。そして、朗読配分全体を眺めると、「主の降誕」「主の公現」「主の洗礼」を貫く、救い主である神の御子の現れという降誕節全体の中心主題が、年間第2主日はしっかりと引き継ぎ、示しているのである。 そのことを示すのが、きょうの第一朗読箇所のイザヤ書49章3、5-6節である。主である神が神の民イスラエルに向かって告げる「あなたはわたしの僕(しもべ)、イスラエル、あなたによってわたしの輝きは現れる」(49・2)や「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いは地の果てまで、もたらす者とする」(49・6)ということばが、まっすぐにイエス・キリストに関連づけられている。この第一朗読は、主の降誕・夜半の第一朗読箇所(イザヤ9・1-3、5-6)、および、主の降誕・日中の第一朗読箇所(イザヤ52・7-10)ともしっかりとつながり、両方のミサで「遠く地の果てまで、すべてのものが神の救いを見た」という同じ答唱句が歌われる答唱詩編(夜半=詩編96、日中=詩編98)ともぴたりと呼応する。こうして、降誕節と年間第2主日はしっかりとした結びつきを示しつつ、次週の年間第3主日から、各福音書朗読を通してイエスの宣教活動の展開が想起されていく。 ところで、あらためて考えたいのは、洗礼者ヨハネの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1・29)ということばである。「小羊」という語は、旧約における過越の犠牲の小羊(出エジプト12・1-28、一コリント5・7参照)や、自らをその小羊のように、多くの人の罪のあがないのいけにえとしてささげる主の僕(しもべ)の姿(イザヤ52・13~53・12)を踏まえるものであり、ヨハネの福音書や黙示録において、イエス・キリストの存在とその全生涯を象徴する語となっていく。 そして、この洗礼者ヨハネのあかしのことばがミサの「交わりの儀(コムニオ)」の式文において中心的なものとなっていることも重要である。「平和の賛歌(アニュス・デイ)」は、「世の罪を取り除く神の小羊」ということばをキリストに対して二人称的に呼びかける文言にして賛美しつつ、「いつくしみをわたしたちに」「平和をわたしたちに」という願いを込めて歌う。こうして「神の小羊」は今、我々の前で聖体に現存する主キリストを指す語となっていく。これを引き継いで、司祭による聖体拝領への招きのことば「世の罪を取り除く神の小羊」ということばで聖体を示す。その文言は、(日本語の式文では「見よ」が訳されないが)ヨハネ福音書1章29節のことばと同じなのである。そして、続くことば「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」は、多くの箇所で「小羊」という語によってキリストを表している黙示録の19章9節「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」を踏まえていることは明らかである。 洗礼者ヨハネのあかしのことばが、キリストの神秘にふさわしい簡潔な信仰宣言として、ミサで使われ続けているのは驚くべきことである。ミサの交わりの儀(コムニオ)の中心は、もちろん聖体としておられるキリストであるが、そのそばには、洗礼者ヨハネがいる。我々とともに、我々のうちにあり、キリストへの信仰と宣教を支えてくれている。 |