| 2026年3月8日 四旬節第3主日 A年 (紫) |
あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる(出エジプト17・6より)岩を打つモーセ フレスコ画 ローマ カリストゥスのカタコンベ 4世紀 表紙絵のカタコンベ壁画は、一つの画面にモーセの二つの出来事が描かれている。(向かって)左側は出エジプト記3章に記されるモーセの召命の場面である。実はこれは、四旬節第3主日(C年)の第一朗読箇所になっている出エジプト記3章1-8a,13-15節の箇所に関係する。その4節で、「神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた」とあり、モーセが「はい」と答えると、「神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから』」(5節)と記されている。絵はまさにこのことばに応じてモーセが履物を脱ごうとしているところを描く。モーセの頭上に伸ばされている右手は神の介入のしるしであり、ここの出エジプトの叙述における神のことばを象徴する。 そして、(向かって)右側に描かれているのが、きょうの四旬節第3主日(A年)の第一朗読箇所、出エジプト記17章3-7節に対応する。荒れ野の旅の中で、喉の渇きに苦しむ民がモーセに不平を述べる(3節)。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか」とまで言う。モーセは主に尋ねる。「どうすればよいのですか」(4節)と。すると主は「その岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」(6節)と言う。このことの結末は、モーセは「イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした」(同)とあっさり記される。そこでは、モーセが主のことばに忠実に従って行ったこと、主のことばのとおり現実に水が岩からほとばしり、民の渇きをいやしたとことまでを含んでいるはずである。絵は、まさにモーセが岩を打つと、水があふれ出てきているように強調的に描いている。 この経緯は出エジプト記の16章と対になっている。そこでも民は不平を述べ、そのことに対して、主がマナと呼ばれるパンを与えた出来事の箇所である。神が民とともに歩まれ、そのいのちをパンと水をもって助け導く方であること、その神に不平を言わずに信頼すべきであることといった教えが含む訓話と言えるものである。このマナの恵みの出来事は,キリストの聖体の前表(予型)としてキリスト教において理解される(ヨハネ6・22-59参照)。これと同様に岩から水が出てくる水については、パウロが一コリント書10章で言及する。「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」(10・1-4)。実は、この箇所は四旬節第3主日(C年)の第二朗読箇所に含まれている。ここではキリストによって与えられる霊的な食べ物と飲み物、すなわち聖体の予型として語られているようである。 他方、教会は、この岩から出る水がキリストのいのちの予型でもあり、この水すなわちキリストに結ばれることになる秘跡、すなわち洗礼の秘跡の予型とも考えられるようになる。そうすると、きょうの四旬節第1主日(A年)の福音朗読箇所、ヨハネ4章5-42節(長い場合、短い場合はそこからの抜粋)で読まれる内容ともつながる。「ヤコブの井戸」と呼ばれるところでのサマリアの女との対話の中でイエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4・14)と告げ、キリストから与えられる新しいいのちが「水」で表現されている。 ここから、水は人がキリストのいのちと結ばれる秘跡の水と関連づけられていき、洗礼水の予型の一つとして想起されるようになる。たとえば『成人のキリスト教入信式』における洗礼水の祝福の祈りの第三形式では、「…あなたはまた、水によっていつくしみを示してくださいました。イスラエルの民は海を渡って解放され、砂ばくでは渇きをいやされ、預言者は、新しい契約を水の働きによって教え、さらにキリストは、ヨルダン川で水を清められました」(100ページ)と想起されているのである。 また、きょうの出エジプト記の朗読内容は、エジプトから救い出された民が神に不平を言うという罪が語られており、それに対する神の恵みのわざは、民の回心への呼びかけ、信頼し続けるようにとの戒めという面がある。このような文脈が聖金曜日の聖歌「とがめの交唱」(2)[典礼聖歌335番]の9節に歌い込まれている。「わたしは岩から救いの水を出して/あなたをうるおしたのに/あなたはわたしに酢とにがぎもを飲ませた」と、旧約の神の民に対する神のめぐみと業(わざ)と、イエスに対する人々の罪深い行いが対比されている。 このように、岩からほとばしる水の出来事は、神の恵みのしるし、キリストのいのちに結ばれる秘跡の予型と同時に神の民が神への信頼に背いた罪の記憶のしるしともなっている。それは、きょうの第二朗読箇所、ローマ書5章1-2、5-8節でパウロが「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(8節)と語るように、神の愛のしるしにほかならない。このような愛のしるしとして、カタコンベの壁画にモーセの出来事の形象が残され、教会によって記憶され、さらに典礼の祈り、秘跡の実践に関する救いの歴史理解の伝統として受け継がれ、今に至っているのである。聖週間――聖木曜日、聖金曜日、そして復活徹夜祭を通じて、このことを思い起こしたい。 |