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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2026年3月15日 四旬節第4主日 A年 (紫)
キリストはあなたを照らされる(エフェソ5・14より)

目の見えない人のいやし 
モザイク
ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀

 表紙絵のモザイクが描く場面は、美術資料的にはマタイ20章29-34節の場面とされる。エリコの町を出てからの出来事で、「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていた」(29節)と始まり、「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」とある(34節)。こことよく似た出来事が同じマタイの9章27-31節にもある。そこでは、二人の盲人がイエスについて来て、いやしを求めたというきっかけで始まる。このモザイクは、どちらも取れる。いずれにしても二人は立って、イエスが彼らの目に触れただろうからである。
 エリコという町名が言及される並行箇所マルコ10章46-52 節とルカ18章35-43節では、いやされるのは一人の男(マルコでは「バルティマイ」と名前まで紹介される)である。そこでは目に触れるというイエスの行為は言及されず、「……あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10・52、ルカ18・42)とイエスが告げるとすぐ目が見えるようになるという出来事である。マルコでは、バルティマイは物乞いだと言われているので、マルコ10章でも「道端に座っていた」というのは物乞いのためだったと推定される。すると、このモザイクが描く男たちが立派な衣をまとっている点は大きく、福音書とは異なる。このことはイエス自身の装いについてもいえる。その高貴な装いは、身分の高い人ということをはるかに超えて、イエスの主としての尊厳の象徴表現になっているからである。その意味で、このモザイクは、福音書の叙述を踏まえつつも、ある種の象徴化が進んでいる。目の見えない人をいやすイエスの救いの力、そしてイエスが神の子である救い主であることが具象化され、イメージされていると感じられる。そのことも考慮して、表紙での引用文言も、第二朗読箇所エフェソ書5・14からの「キリストはあなたを照らされる」ということばを同じく象徴句として掲載している。
 きょうの福音朗読箇所ヨハネ9章(長い場合は9章全部、短い場合はその抜粋1,6-9,13-17,34-38節)の生まれつき目の見えない人をいやす話は、上述のマタイなどの話と比べながら味わうと非常に興味深い。ヨハネ9章で、イエスは、物乞いをしている生まれつき目の見えない人をいやすのだが、そのときにするのは、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗るという行為である(唾を目につけるという行為は、マルコ8・22-26 でも出てくる)。この行為が引き金になって、ヨハネ9章では、「イエスは誰であるのか」をめぐる議論に焦点が移る。「神のもとから来られたのでなければ、何もおできならなかったはずです」と言う、いやされた人の証言がその頂点をなす(33 節) 。そして、結局はこのいやされた人が「主よ、信じます」(38節)と決定的な信仰告白するところがクライマックスとなっている。
 このような趣旨は、実は、上述で挙げたマタイ、マルコ、ルカにおける目に見えない人のいやしの話でも同じである。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(マタイ20・30-31)、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10・47-48; ルカ18・38-39)は、イエスが救い主であること、主であることの信仰の表明である。それに応えるのが、イエスの目に触れるという行為や「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10・52;ルカ18・42)ということばである。イエスが主であること、そしてそのことへの信頼、信仰こそがいやされることの根本にある。信仰的なイエスと人との関係がいやしという形で実現されるのである。いやしの出来事は、単に病気や障害の治癒にとどまらず、イエスを信じる者となる、従う者となる、イエスに派遣される者となる、といった召命の出来事でもある。そうすると、これらの出来事には、我々への召命についての象徴や暗示が含まれていると考えていくこともできる。
 きょうの福音朗読箇所でいえば、目の見えない人が、イエスから「シロアムーー『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われ、「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(ヨハネ9・7)とある。この「行って洗い」が回心と洗礼を促す言葉として、しばしば入信準備の教えにも関連づけられたという古代教会の伝統がある。
 冒頭でマタイ20章29-34節のおける、いやしを求める嘆願の言葉「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(マタイ20・30-31)は、我々のミサの始まりで歌われるいつくしみの賛歌(キリエ)の「主よ、いつくしみをわたしたちに」と、文言でも明らかにつながっている。そして、イエスが最後に告げる「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10・52)の「行きなさい」もミサの閉祭の言葉「行きましょう」(直訳すると「あなたがたは行きなさい」)と結びつく。このいやしの出来事におけるイエスといやされる人との関係は、ミサにおけるキリストと我々との関係の縮図であり、前例であり、出発点でもあるといえるだろう。我々はミサと通じて、キリストに触れられ、目を開かされているのである。
 「目が開かれる」ということは、日本語での「開眼」という精神性のある言葉が思い起こされる。人生の転機となる悟りの体験を言い表す言葉は、今や、イエスとの出会いによって、開かれ、回心し、信仰の悟りに至るプロセスを表現するのにふさわしい言葉になりうる。もちろん、目は再び曇らされたり、ふさがれたりすることもある。そこから解放され、イエスの姿を絶えず見続け、そのことばを聞き、そのからだにあずかるために感謝の祭儀におけるキリストとの交わりがある。表紙絵に描かれる場面は結局、我々自身の信仰生活の姿を映し出している。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』四旬節第四主日

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