| 2026年3月22日 四旬節第5主日 A年 (紫) |
わたしを信じる者は、死んでも生きる (ヨハネ11・25より)ラザロの復活 ギリシア・イコン アテネ ベナキ美術館 16世紀 四旬節第3主日のサマリアの女との対話(ヨハネ4章)、第4主日の生まれつき目の見えない人のいやし(同9章)に続き、きょうもヨハネ福音書からの朗読である。長い場合はヨハネ11章のラザロの復活に関する叙述全部(1-45節)を読むが、短い場合はその抜粋になる(3-7、17、20-27、33b-45節)。四旬節にこの箇所を朗読するのは教会の古い伝統である。現在のA年の四旬節第3、第4、第5主日の福音朗読全体が古代教会で入信の秘跡への導きとして用いられていた朗読箇所を踏まえている。入信志願者が招き入れられる新しい永遠のいのちのシンボルとして、第3主日では「水」、第4主日では「光」が主題となり、きょうの第5 主日は、その頂点として、ラザロの復活を巡って「いのち」そのものが主題となり、間近な洗礼の秘跡を通してあずかることになる永遠のいのちへと招き入れていくのである。 人のいのちの復活という驚くべき奇跡として、ラザロの復活はキリスト教美術において、その初期から描かれ続けてきた。3-4世紀に、カタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻でこの場面が描かれたのは、死後の復活を待ち望む人々の祈りがこめられていた。キリストの生涯の諸場面を連続して描く作品が発展すると、東方教会・西方教会ともに、ラザロの復活の場面は、イエスが受難と復活に向かっていくなかの重要な出来事として、とりわけエルサレム入城の直前に配置されることもしばしばであった。 このイコンは、まさにイエスが叫ぶとラザロが出て来たという瞬間を描きとどめている。墓が険しく切り立った岩山として描かれるのは、特にイコンでの表現定型である。イエス自身は、キリスト像のイコンに見られるように、右手は神の力を及ぼす祝福のしぐさをし(ここでは特に言ったことを実現する神の力の顕現を表現している)、左手にはみことばの象徴である巻物が描かれている。 ラザロは全身が布に包まれ、顔が見えるだけである。美術上、ラザロが亜麻布か死者の包帯でくるまれている姿で登場するのは4世紀以降という。エジプトのミイラからヒントを得たものといわれる。たしかに、ヨハネ福音書は「手と足を布で巻かれたまま」(ヨハネ11・44 )と記すだけのところで、全身がぐるぐる巻きにされているのはミイラのイメージが流れ込んでいるためかもしれない。わずかながら見える洞窟の中の闇とそこから出てきた、まさしく死の淵から地上の生へと再び戻ってきたラザロの姿は、イエスよりも目立つほどである。まさにそこに「神の栄光が見られる」(40節。イエスのことば)のである。 彼の復活は、あくまで地上の生命への復帰であるが、そのわざの中に真のいのちの主である神の力が輝いている。ヨハネ福音書の叙述の中でも、ラザロの復活と後のイエスの復活との違いが示されるようになる。イエスの復活の場合は墓そのものが無意味になり、遺体を包む布さえも捨て置かれるままとなる。地上の生をめぐる事物がすべて空しいものとされていくのである。そこに、イエスの死と復活の出来事の超越性、深さ、神秘があることが暗示される。イエスの復活は地上の生を超えることである。ラザロの復活の場面の中のイエスは、すでに復活を経た主としての尊厳をもって表現されている。 イエスの後ろにいるのは弟子たちで、なにやら顔を見合わせているのは、信じがたい出来事の前での驚きからなのだろう。ラザロの墓に近いところにいるのは、周囲にいた村の人々。ラザロにいちばん近い人が鼻と口を覆っているのはすでに死臭が漂っていたことの具象化である。さらにイエスの行動に疑いを示すような険しい顔もある。これらは、神のわざに対する地上の人間の反応の生き生きとした描写といえる。 そしてイエスの前に描かれるのがラザロの姉妹マルタとマリアである。イエスと彼女たちとの対話の展開から見て、イエスの「わたしは、復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11・25-26)ということばに対して「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27節)と発言するマルタは、ここではイエスを見上げて身を起こしている奥のほうの女性だろう。短い場合の朗読では略されているが、そのあとマルタは家に帰ってマリアに、先生(イエス)が呼んでいると伝えると、マリアはすぐに立ち上がりイエスのもとに行き(11・28-29参照)、やがて「イエスを見るなり足もとにひれ伏し」(32節)たとある。このイコンで、手前にひれ伏している女性はマリアと考えるのが妥当である。いずれにしても、ペトロとアンデレを彷彿とさせるように、イエスとの対話を通じて弟子となっていくこの姉妹の姿は興味深く、我々自身のイエスとの出会いをも仲介してくれるかのようである。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11・25)というイエスの問いかけは、今、我々に向かっている。それも、イエス自身の死と復活の出来事を前にして、問いかけられている。それは,神のいつくしみに満ちた招きにほかならない。その意味合いは、ミサでの聖体拝領への招き「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」ということばの中にも凝縮されている。 |