| 2026年3月29日 受難の主日(枝の主日) A年 (赤) |
「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27・54より)十字架のキリスト モザイク オシオス・ルカス修道院聖堂 11世紀 きょうは受難の主日、受難朗読はA年の場合、マタイ27章11-54節から読まれる。表紙絵は、これに合わせて、イエスの十字架磔刑図のモザイクが掲載されている。磔刑図の定型といえる要素がこのモザイクにも見られる。イエスの十字架の(向かって)左側に立つ母マリア、そして右側に立つ使徒ヨハネの描写は、ヨハネ福音書19章26-27節を踏まえている。ヨハネの場面では「婦人よ、ご覧なさい、あなたの子です」(26節)と「見なさい、あなたの母です」(27節)というイエスのことばによって、この十字架から教会、ひいては新しい人類の誕生が暗示されることになる。このモザイクのマリアの上の文字は、まさしく上の「ご覧なさい、あなたの子です」、使徒ヨハネの上は「見なさい、あなたの母です」のギリシア語文字の記載である。 マリアと使徒ヨハネの表情に注目すると、二人とも悲しげである。マリアはイエスのほうに右手を差し出しながらこの十字架の出来事を沈思しているようであり、使徒ヨハネは右手を頬に当ててどこか沈んだ表情である。しかし、それらを通じてもこの十字架の出来事の深刻な重さが伝えられてくる。 イエスの十字架の足台の下には頭蓋骨が簡略化して描かれている。これはイコンやモザイクの磔刑図に見られる定型要素で、十字架が立てられた場所が「されこうべの場所」(ヨハネ19・17、その他並行箇所)であることに基づく。イエスの顔は、固く目が閉じられている。その身体も軽く屈曲し、力を失い死につつある様子が克明に描かれている。右脇からほとばしる血潮の勢いも強い。両足からも血が流れ出ている。最後の晩餐で予告された、「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」(マタイ26・28)の実際の光景が示されている。イエスが腕を伸ばす十字架の横木の上には「十字架」を意味するギリシア語文字が置かれ、その上に描かれる二つの円は、これも磔刑図の一つの定型要素としての太陽(向かって左)と月(右)の描写がある。これは「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(マタイ27・45)を踏まえて、元来は太陽も月も自らを隠すというような描写になり、それが簡略されていくというものである。ここでもその描写は形式的で記号のようである。縦木の上には「イエス・キリスト」(イエスース・クリストゥース)の略記文字が記されている。 十字架のイエスを描く図は、このようにヨハネ福音書が根底にありつつも、この十字架のキリストを仰ぎつつ、各福音書が照らし出すイエスの死の意味についての教えを重ね合わせて鑑賞することが大切である。 マタイ福音書では(そしてこの点ではマルコ福音書を踏まえつつ)、イエスが十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27・46)と大声で叫んだ。その解釈として「これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(同)と解説される。このことばは、詩編22・1(冒頭のことば)である。苦しむ義人の祈りとも呼ばれるこの詩編22の内容すべてを、十字架のイエスの姿に重ね合わせてみるとき、この受難の意味を考えるためのヒントが多い。 とくにこの詩編22の19節では、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」という部分は、イエスの受難の叙述の中の「彼ら(=兵士たち)はイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い」(マタイ27・35)のベースになっている。そのほかにも、十字架のイエスに対する群衆や兵士の様子に関しては、詩編22と重なる部分があるのでぜひ読んでみたい。 ちなみに、イエスが叫んだことばは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、元来「エリ、アッター」(「あなたこそわたしの神です」)という信仰告白であったという説もある。群衆がこれを「エリヤ、ター」(エリヤよ、来てください)」と言っていると思ったので、「そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者もいた」(マタイ27・47)という叙述になっているのだという(高橋重幸『主日の聖書』オリエンス宗教研究所 1986年 147ページ参照)。 この説が妥当するかどうかはわからないが、「あなたこそわたしの神です」という表現は、実は詩編22にも含まれている。「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」(11節)というところである。ここを重視すれば、マルコとマタイはこの十字架の出来事やイエスの叫びを、全体として詩編22と関連づけて述べていることの土台にあるとも考えられる。 もっとも、イエスが本当に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という詩編22の冒頭のことばを告げたとしても、それは神に対する嘆きや疑いにとどまるものではない。詩編22自体が神への信頼をこめた嘆願「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください」(20節)へと展開し、さらに「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」(23節)という神賛美、そして「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に使え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業(みわざ)を民の末に告げ知らせるでしょう」(30-32節)と、神のわざのあかしに対する決意へと広がっていく。 このような「苦しむ義人」の姿の極致をイエスはその十字架において示している。それはすでに義人の生涯にとどまるものではない。神から来た神の御子であるという真実と神秘がここに啓示されている。それを使徒たちはこれから悟ることになるが、その最初の悟りを百人隊長が既に先取りしている。「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27・54)と。ミサの式文の随所で告げられるキリストの称号であり信仰宣言である「神の子」ということばの始まりがここにある。それは我々がささげるミサの中にいつも生き続けている。 |