| 2026年4月12日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日) A年 (白) |
信じない者ではなく、信じる者になりなさい (ヨハネ20・27より)復活したキリストとトマス 象牙浮彫 ドイツ ベルリン国立博物館 11世紀 復活節第2主日の福音朗読は毎年同じヨハネ福音書20章19-31節で、復活したイエスの現れの次第が述べられる。その24~29節は、トマスとイエスとのやりとりが中心となる、印象深いエピソードである。キリスト教美術では「トマスの疑い」と題されて、この場面は好んで描かれてきた。表紙に掲げられた11世紀の象牙浮彫は、極めてユニークで、細長い縦長の構図の中に、イエスとトマスをぎりぎりまで押し込んだ形のものとなっている。 そのような構図であるために、幾つかの要素は独特な味わいを有するものとなっている。イエスが立っているのは、廟堂の形で示された墓と考えられる。イエスが“墓の上に立っている”ということで、イエスが復活したこと、すなわち死を凌駕するいのちに生きているということが示されている。イエスの足が大きく、力強く描かれているのも、その強調だろう。そのイエスが右腕を頭の上に上げて脇腹を見せようとしている姿勢、その右手の指の長さや描写の細かさも目立つ。このように、イエスの身体や四肢を細かく描くことのうちに、復活ということのリアリティが考えられているのだろう。この点、我々は重く感じ取り、考える必要がある。復活とは一見、神話的なこと、幽霊めいた存在としての現れのように思いがちだが、イエスの復活は、逆に地上の身体性以上に、明確なリアリティであること、むしろ、そこにこそ確かないのちがあることが大切なのである。 さて、ヨハネ福音書の叙述においては、イエスがトマスに対して、「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20・27)と告げる瞬間が書きとどめられている。意外にも、このイエスのことばに対して、実際にトマスがどうしたかは記されていない。ただ、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と言ったことだけが記されている。それに対するイエスのことばが印象深い。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。トマスに対してまずこのあたりを思い巡らすことになる。トマスは、ここでは「見たから信じた者」なのだろうか。あるいは、「わたしのわき腹に入れなさい」と言われて、そう言われた瞬間に信仰告白をしたのだろうか、つまり見ないで信仰告白をした者なのだろうか。流れから想像すると、前者のように思われるが、後者かもしれない、と考えることもできる。 そのような読み取り方の幅がある中で、キリスト教美術では、何らかの形でトマスの反応が描かれることになる。その描き方は多様になっていくが、この象牙浮彫は,トマスが上を見て、手をイエスのわき腹に伸ばしているところだけを描いているように見えるが、同時に、イエスにすがりつこうとしている姿勢にも見える。「わたしの主、わたしの神よ」という告白の心を表現しているのではないだろうか。顔が真上に向かい、右足を上げているほど、その姿勢は動的で切実感にあふれている。このあたり、トマスの表情や目が見えないがゆえに、我々は想像に誘われる。それを通して、我々自身がトマス以後の信者であることの自覚に導かれるのである。 「トマスの疑い」という画題は逆説的で、実際には「トマスの信仰告白」であろう。「見ないのに信じる者は、幸いである」(ヨハネ20・29)というイエスのことばこそ我々にとって福音である。復活したイエスとトマスとのやりとりから、万人に対する信仰への招きがあふれ出ている。 ちなみにこのエピソードをきょうの福音朗読箇所前半のヨハネ20章19-23節と関連させると、さらにこの日のメッセージの重要さが感じられてくる。イエスは弟子たちに「平和があるように」と告げ、派遣する(21節)。そして、聖霊を与える、それは、罪をゆるす力にほかならない(23節)。イエスとトマスのやりとりも、「その八日の後」(26節)のことで、つまりは主日の体験である。ここに、主日のミサで、復活した主イエスと我々がいつも出会い、そこでイエスはいつも「見ないのに信じる人は、幸いである」と、人々を自らの弟子、主に導かれる神の民となるよう招いてくれているのである。 「見ないで信じる者は、幸いである」ということばは、聖体拝領への招き「神の小羊の食卓に招かれた人は、幸い」と響きが似ている。これは、聖体のもとに秘跡的に現存しておられるキリストへの信仰告白としての拝領行為への招きである。すなわち、地上的な意味で見るのではなく、秘跡として見、食べることを通して、キリストを「わたしの神、わたしの主よ」と告白することこそが幸いなことである、という招きのことばともいえる。トマスとやりとりのうちに、我々は、ミサにおけるキリストとの交わりの先駆けを見ることができる。そこには真の平和とゆるしの源泉がある。 |