| 2026年4月19日 復活節第3主日 A年 (白) |
信じない者ではなく、信じる者になりなさい (ヨハネ20・27より)エマオへの道 手彩色銅版画 原田陽子(大阪高松大司教区) 福音朗読箇所は、ルカ24章13-35節。エマオという村に向かって歩く二人の弟子に復活したイエスが現れて同行するという出来事の展開である。初めは彼らがイエスだとは知らずに道をともにしていくが、エマオに着いて一緒に食事の席に着き、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(ルカ24・30)そのとき、彼ら「二人の目が開き、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)という劇的な経緯が叙述されている。 表紙絵に掲げられた原田陽子さんの作品は、この朗読内容を二つの場面で表現している。(向かって)左側は、二人の弟子だけの場面。うつむいて道を歩いている。その姿は暗闇に覆われている。その限りは、この段階の二人がある種の暗さを抱えていることが表現されている。ルカの叙述にも復活した「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(ルカ24・15)のに、気づいていない。そして「暗い顔をして立ち止まった」(17節)とある。ただ、作品の中の二人の表情は決して暗くはない。むしろ目がはっきりと見開かれていて、一つの出来事(=イエスの死)について、その意味を、ある種の望みを持って思い巡らしている表情である。福音書のながの「ナザレのイエスのことです……」(19節)に始まる、長い経緯の説明話がそのことを示す。婦人たちの言ったところによると、「イエスは生きておられる」ということ、実際に墓は空であったことなどまでである。気づけずにいる暗さは絵の中のうつむいた姿で表現されるが、その目は、復活という神秘に近づきつつあるのではないだろう。 そして、絵の(向かって)右側では、復活したイエスが二人の間に立っており、二人ともイエスを見つめている。エマオに到着してからの食事の席で、同行者がイエスと気づいた二人が、イエスの姿が見えなくなったとき、語り合った内容――「(イエスが)道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24・32)と回顧されている状況が、ここに描かれているものと思われる。 実際、左のほうの二人の弟子たちは、暗闇の中にいた。まだイエスの出来事の意味が悟れず、うつむいている。しかし、復活したイエスが知らずに同行しているなかでも、二人の心は燃えていた、という次第を表現するかのように、この右側の場面は赤々と燃えている。復活の光に照らされる赤でもあり、イエスがともにおられ、ともに歩まれていることへの喜びの色でもある。そのときは気づいていなかっだ、今、振り返って語り合うなかでは、同行者ははっきりと復活された主イエスである。“その時”の光景の中に、主だとわかった“今”の二人の心が投影されて描かれている、ということになるだろう。 このエピソードを主題とするキリスト教美術では、食事の席での出来事を描くものも多いが、このような描き方もむしろ、ルカ福音書との対話を深めてくれるユニークな表現作品となっている。そこからあふれ出くるヒントを大切にしながら、我々の黙想を二つの主題で広げてみたい。 一つはやはり、このエピソードに含まれている感謝の祭儀(ミサ)についての諭しである。ミサは復活したイエスが我々とともにおられ、歩まれていることの秘跡的な現れに他ならないこと、そして聖書全体にわたり、自分について書かれていることを説明したという点(ルカ24・25-27参照)は、ミサのことばの典礼の意味をまさしく示しているということである。さらに、言うまでもなく、エマオについてイエスと弟子たちともにした食事の行為――「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)は感謝の典礼の源を示しているとさえ言える。この復活したイエスが行ったこの食事を、教会は、感謝の祭儀として形作り、継続しているのである。「イエスだとわかった」(31節)瞬間にその姿はすぐに見えなくなったと、と述べているところは、この食事の秘跡性が暗示されているように思われる。イエスは地上的には目に見えないが、聖体の秘跡を通して我々に出会う方になっているのである。 もう一つは、このエピソードで繰り返される「一緒に」という語句やそれに類する表現である(ギリシア語では「シュン」という接頭辞や、「メタ」という前置詞で表現される)。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(ルカ24・15)というところ、またエマオに着いたとき弟子たちが言う「一緒にお泊まりください」ということば(29節)、「イエスは共に泊まるために家に入られた」(同)、「一緒に食事の席に着いたとき」(30節)といった表現である。さらに二人が「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(33-34節)の中の「集まって」というところにも「一緒に」や「共に」の語が意味として含まれている。 主イエスが一緒に歩かれる弟子たちの姿、イエスが弟子たちの一緒にとどまる姿、一緒に食事の席に着く姿、弟子たちが一緒に集まって主の復活をあかしする姿、これらは新約の神の民、すなわち教会の姿にほかならない。今教会は「シノドス」という語を世界代表司教会議の意味よりももっと深く、共に歩む教会、共に歩む神の民のあり方を示す語と考え、教会・神の民の「シノダリティ」(共に歩むあり方)を根源から実現しようとしている。その原型を、まさにエマオへの行く弟子たちに主イエスが現れ、共に歩まれ、共に食事をされた光景に見ることができる。エマオへの旅路は感謝の祭儀(ミサ)を通じて、たえず続けられ、神の民の根源的なあり方をたえず示唆するものとなっている。 |