| 2026年5月17日 主の昇天 A年 (白) |
イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた(第一朗読主題句 使徒言行録1・9より)木製扉の浮き彫り装飾 ドイツ ケルン カピトルの聖マリア教会 11世紀 きょうは主の昇天の祭日。元来の規定によれば、使徒言行録の記載に従って復活の主日から40日目にあたる復活節第6週の木曜日であるが、日本のような宣教国では、この祭日を主日に祝うことができるよう復活節第7主日にあたるきょうが主の昇天(祭日)となる。主日に主の昇天を記念し、祝えることは日本の教会としては喜ばしく、意義深い。そのことをきょうのA年の聖書朗読箇所と表紙絵に掲げた絵を通じて深めていきたい。 主の昇天の聖書朗読でABC年共通なのは、第一朗読箇所の使徒言行録1章1-11節である。そこで述べられる「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)をモチーフにしているのが、きょうの表紙絵掲載のレリーフ(浮き彫り)である。「彼ら」をこの作品は、マリアを中心とする4人の弟子たちの群像図で描き、「彼らの目から見えなくなった」というイエスの姿は、すでにこの画面から見えなくなっているものとして描かれている。 実際、主の昇天の出来事はある意味でドラマティックな内容なので、キリスト教美術では多様に描かれてきた。イエス自身が自ら天に向かって山を登っていくように描くもの、神の右の手が上から出ていてイエスを引き上げるというふうに描くもの、光背に包まれたイエスが天使たちによって天に上げられつつ、下にいるマリアや弟子たちを祝福しているように描くもの、さらには上を見上げる弟子たちの上にイエスの足だけを描くものなどもあるが、このレリーフの場合は、もはやイエスの姿が描かれていない。 しかし、中心にいるマリアがまっすぐ上を仰ぎ、両手を合わせて真上に伸ばしている姿、他の弟子たちの上に伸ばされた手によって、なによりも昇天しゆくイエスの存在は、むしろ力強く感じられる。目に見えなくなった、の意味を深く考えさせるのである。 ちなみに、使徒言行録のこの箇所(1・1-11)には、マリアへの言及はない。しかし、昇天の図では、多くの場合、マリアが描かれる。これは、使徒言行録のすぐあとの12-13節で、イエスの昇天の後、 弟子たちがエルサレムに戻ってきて、「泊まっていた家の上の部屋に上がった」(使徒言行録1・13)とあり、そのあと11人の使徒の名前が述べられ、続いて「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア……と心を合わせて熱心に祈っていた」(同14節)とあることがもとになり、聖霊降臨へと続いていくからである。主の昇天と聖霊降臨の出来事としての一体性が、昇天の場面でのマリアの描写の源になっているのだろう。 このレリーフでの四人の弟子たちの描き方も一様ではない。両外側の弟子たちは顔を外に向けている。(画面向かって)右から二人目の弟子は、右手で右目を覆っている。この出来事に対する信じがたい気持ちや嘆いている気持ちを反映しているものと思われる。使徒言行録では詳しく描写されないが、昇天というある意味で不思議な出来事に対して、さまざまな感情や思いが行き交ったとことだろう。 他方、昇天の出来事は、信仰者の将来に対する力強い約束が告げられる時である。イエス自身のことば「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1・8)、また、「白い服を着た二人の人」(10節)として描写される天使のことば「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1・11)は、弟子たち(キリスト者たち)に地上の使命への自覚を呼び起こす深いメッセージである。 昇天の出来事において、弟子たちの地上における使命に向けての派遣がなされるということは、きょうの福音朗読箇所マタイ28章16-20節がはっきりと示している。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。明確な派遣のメーセージであり、我々にとっても不変の指示である。 ちなみに、マタイ福音書に昇天という出来事への言及はない。しかし、山に登って告げられたことばは、すでに天上からの派遣命令のようである。そして最後のことば「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)は、マタイなりに昇天の意味、そして聖霊降臨の意味を明かしているものと考えられる。目に見えないかたちでも、イエスは主として、我々とともにおられ、ともに歩まれる方である。この「ともに」のうちに、聖霊のことも、聖霊による父である神との交わりのことも含意されている。 |