| 2026年7月5日 年間第14主日 A年 (緑) |
見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってくる(ゼカリヤ9・9より)エルサレム入城 エグベルト朗読福音書 ドイツ トリーア市立図書館 980年頃 表紙絵は、イエスのエルサレム入城の場面。この絵が掲載されているのは、きょうのミサの聖書朗読に見られる配分上の主題が注目されているからである。 福音朗読箇所(マタイ11・25-30)には、さまざまなメッセージが含まれるが、主題句は29節から取られた「わたしは柔和で謙遜な者である」という文言になっている。第一朗読箇所の主題句は、「見よ、あなたの王が来る。彼は高ぶることがない」というゼカリヤ9章9節の文言である。このゼカリヤの預言は、マタイ福音書21章1-11節のエレサレム入城の場面でも登場する。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方でろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21・5)である。このような、福音朗読とそれに関連する旧約朗読の箇所を併せて考えると、きょうの聖書朗読でも、柔和で謙遜な(高ぶることのない)王(メシア=救い主)であるキリストが主題となっていることがわかる。 ちなみに、イエスのエルサレム入城の場面はどの福音書にも記されており(マルコ11・1-11、ルカ19・28-40、ヨハネ12・12-19)、ゼカリヤの預言の引用はマタイとヨハネ12・15に見られる。これと関連するが、きょうの福音朗読箇所のうち前半のマタイ11章25-27節の内容は、ルカ10章20-21節にも同様の箇所があるにしても、後半28-30節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」は全福音書中マタイだけが伝えているイエスのメッセージである。それだけにマタイの伝えるきょうのイエスのことばと、イエスの入城の叙述、その背景になっているゼカリヤの預言は、それぞれを互いに結びつけながら味わうことが大切である。 さて、マタイの福音書はそのように、ろばに乗ってくる柔和の謙遜な王としての救い主イエスの姿を浮かび上がらせる。 ゼカリヤ書本文の「高ぶることなく」にあたるところが、マタイの引用句では「柔和な方」となっている。福音書における旧約聖書の引用がギリシア語訳(七十人訳聖書)に基づくことによる用語変更といえるが、そのことに留意しつつ、きょうの福音朗読箇所を見ると、イエスは自分のことを「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11・29)と語っている。これは、まさに、ゼカリヤ書の「高ぶることなく」とマタイによる引用句の「柔和な方」を総合した表現である。イエス自身の「わたしは柔和で謙遜な者」のうちに、預言された“王”である“救い主”との自覚がにじみ出ている。 そのことを踏まえて表紙絵を見ると、イエスはその姿勢、表情に柔和さがよく表現されている。このイエスが王として迎えられていても、それは人を威圧的に支配する王の意味ではなく、あくまで人に安らぎを与える救い主(メシア)としての王である。逆にいうと、それでも、王としての威厳・尊厳を身に備えている。この点を絵も表現しているようである。ろばは荷物を背負って忍耐しているようではなく、背と首を高く保ち、凛々(りり)しく闊歩(かっぽ)する誇り高い馬のように描かれている。これは、上述のマタイ福音書やゼカリヤの預言を踏まえた上で、救い主であり、その意味で王であるイエスを浮かび上がらせる意図があるものと思われる。こうした工夫のうちにきょうのテーマがもつ一つの重要なポイントを考えることができる。 謙遜とは、文字どおりには自分を低くするという意味である。謙遜を人間関係のレベルの中で考えると、社交的な場での謙遜姿勢か、控えめな人柄とかを連想する。あるいは身分制社会において高貴の者から低い身分の者に求められてきた屈従や服従という関係が想起されるかもしれない。しかし、聖書の中で根本的なのは、神のみ前で高ぶらないこと、神の前で人間が自らの分を超えることなく、創造の恵みによって与えられたあり方に徹しつつ、その完全を目指すことであろう。イエスが来られたのはそのあり方に不調和に陥ったときにそのあり方を回復し、さらに高めるためであった。神が与えてくれた尊厳あるあり方がキリストによって回復され、さらに高められている、その新たな尊厳の源にキリストがおり、キリストに学ぶべき弟子たちとしてキリスト者がいる。神の前での人間のへりくだりは、王らしい尊厳の輝きと矛盾しない。人間らしい尊厳ある自由に満ちたものであろう。十字架でのキリストはその極みをあかしする(きょうの聖書朗読のテーマとの関連で、フィリピ2章1-11節も味わいたい)。 最後に一点、心に留めておきたい。エルサレム入城についてマタイが記す群衆の賛美のことば「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ21・9。マルコ11・9-10も参照。背景には、詩編118・25-27がある)は、ミサの「感謝の賛歌(サンクトゥス)」の後半の句となっているものである。この賛歌によって迎えている聖なる救い主が、なによりも「柔和で謙遜な」方であることを思い続けることにしたい。 |