| 2026年7月26日 年間第17主日 A年 (緑) |
今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える (列王記上3・12より)ソロモンと、知恵と識見の象徴 「要約聖書」写本 パリ アルスナル図書館 13世紀 表紙絵は、きょうの第一朗読箇所である列王記上3章5、7-12節にちなんでいる。年間主日の第一朗読はつねに福音朗読箇所をどのように受けとめるかの大切なヒントを含んでいるので、この絵を通じて、福音をも味わっていきたい。 きょうの福音朗読箇所、マタイ13章44-52節(長い場合)である。短い場合(13・44-46)でも読まれる部分では、「宝が隠されている畑」の譬(たと)えと「高価な真珠」という譬えが出てくる。どちらも、見つけた人がそれらを手に入れるために、持ち物をすっかり売り払ってそれを買う、というところが話としては共通している。これによって神の国を求める人は、自分のものをすべて捨てて、なによりもそれを求めるべきである、という教えが底辺に流れている。神の国が「宝」や「高価な真珠」という譬えでなによりも価値あるものということが易しく教えられている話である。 こここで教えられている何よりも価値あるものについて、それを「知恵」として語るのが第一朗読箇所である。ソロモンは、「何事でも願うがよい」(列王記上3・5)という主のことばに対して、「(神の)民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように」「聞き分ける心」(9節)を求めた。主は、これを喜び、「自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」(11節)として称賛し、「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」(12節)と正式な授与宣言に至る。 これは福音朗読における宝や高価な真珠の譬えが、神の国を示すという教えに対する深いヒントになる。それは「心」であり、しかも「知恵に満ちた賢明な心」(列王記上3・12)である。この心とは、人間の内面だけに限定されたものではなく、神のことばを聞き分け、人々の言動を評価するという働きをするもので、根底に神との対話、神との交わりがつねにあることが前提としてされている。このような福音とソロモンの逸話との関連性をよく示すのが、答唱詩編で歌われる詩編 119である。「あなたの教えはすばらしい。すべての金銀にまさる」(詩編119・72 典礼訳)。これが「神よ、あなたはわたしのすべて」(同57 典礼訳)という告白に凝縮されている。これはソロモンの信仰でもあり、イエスが福音の中で譬えを通して求めている信仰のあり方である。 このような関連から、表紙絵のソロモン王を中央に描く絵も興味深いものとなる。ソロモンに与えられた「知恵に満ちた賢明な心」(列王記上3・12)に関連して、知恵の象徴と識見の象徴をそれぞれ天使像と人物像で表現する絵である。(向かって)右側にいる膝の上に左手で本を持ちながら右手で顎を支えて熟考している少年が識見の象徴と推測され、天使は神から授けられる知恵を象徴していると考えてよいだろう。 ソロモンが知恵に満ちた賢王であったことは、列王記がよく伝えるところであるが、それ以前に、神に信頼し、すべてを神から、神に仕える信仰者であることが重要であり、そのような者として、王の使命を果たすところに、我々にとっての模範としての重要性がある。きょうマタイの福音朗読箇所はその意味では、この列王記のソロモンの逸話を通じてマタイ福音書6章25-34節の教えとも関連してくる。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33節)の箇所である。 ところで、きょうクローズアップされるソロモンが、いかにして我々の模範であるかを考えるために、注目すべきことがある。ソロモンに授けられた「知恵に満ちた賢明な心」(列王記上3・12)という文言が、イザヤ11章2節では来るべきメシアについて約束される霊を連想させるのである。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」というところである。このような霊にイエス自身がまことのメシア(救い主)として満たされていたし、十字架につけられたキリストこそ神の知恵というパウロの教え(1コリント1・18-31参照)にまで至る。そして、このキリストに結ばれる我々が、堅信の秘跡によって受ける聖霊のたまものは、まさにイザヤの預言で約束された霊を受け継ぐものである(堅信の秘跡における祈り参照:「今、この人々の上に助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心をお与えください」)。我々キリスト者の信仰生活、精神活動を支えていく聖霊の働きは、ソロモンに与えられた「知恵に満ちた賢明な心」(列王記上3・12)の系譜にもとにある。その聖霊の働きによって一つに集い、感謝の祭儀を祝う我々の営みは、この心を現代において絶えず分かち合い、善と悪を判断するための神との交わりであるということにも気づかされる。 |