| 2026年8月2日 年間第18主日 A年 (緑) |
あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい(マタイ14・16より)人々を満たすイエス オットー三世朗読福音書挿絵 ドイツ ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀 パンの増加の奇跡を描く中世の聖書写本画の一つ。主題はもちろん、きょうの福音朗読箇所のマタイ14章13-21節で述べられる、イエスが五つのパンと二匹の魚をもって、男五千人ほどを含む多くの人を満たしたという話である。マルコ 6章30-44節、ルカ 9章10-17節、ヨハネ 6章1-14節にも同様の話がある(マタイ15章32-39節、マルコ8章1-10節で伝えられる“七つのパンと小さな魚少し-余ったパン屑の籠 7個-食べた男たちは四千人”という要素で語られる逸話も参照。根本的な出来事の別系統の伝承と考えられる)。 まず、この写本画挿絵の特徴を見ていこう。上の部分では、中央に立つキリストが両脇にいる弟子たちにパンと魚を与えている。下の部分では、人の多さから見て、より広い空間が描かれており、そこに多くの群衆が丁寧に描き込まれている。真ん中には十二の容器が置かれ(上に四つ、下に八つ)、その中にパンがぎっしり詰まっている。 人々の描写が面白い。ほとんどの人の顔や目は、イエスのほうに向かっている。互いに顔を見合わせているように描いているところもあるが、いずれにしてもイエスに向かう人々の顔と目の強調ぶりが目立つ。よく細かく描き込んだものである。一番の下の群衆の中には、杖をもった人や乳飲み子を抱く母親の姿も2組見える。こうした描写を見ると、マタイ福音書では、「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」(マタイ14・21)という記述も。五千人の男だけが食べたのではなく、そこには女性や子どもたちもいた、というふうに読むべきであることがわかる。 その人々が座るところの描写だが、マタイでは「草の上」(マタイ14・19)と記されているが、マルコでは「青草の上」(マルコ6・39)、ルカは言及なし、ヨハネでは「そこは草がたくさん生えていた」(ヨハネ6・12)と記される。この絵の中では、全体が茶色い背景の中で、群衆の座っているところは草色の敷物が描かれている。マタイが記す「草の上」の表現なのだろう。また、十二部族や十二使徒との関連で考えられる十二のかごも、絵の中では、かごというより高価な供物を入れる黄金の器であり、中身も残ったパン屑ではなく、パンそのものである。福音書の記述に対して、個々の要素が自由な想像を巡らせながら描かれていることがわかって、興味深い。 いずれにしても、これら多くの人を少ない食べ物で満たす話は、四つの福音書が共通に記しており、教会にとっていかに重要な出来事の伝承であるかが窺われる。それは、イエスについてのあかしの出来事というだけでなく、初代教会で「主の晩餐」あるいは「パンを裂く」と呼ばれた、エウカリスティア=感謝の祭儀(ミサ)につながるイエスや弟子たちの行為として受けとめられていたからであろう。それは、マタイにおいて、イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(14・19)というところである(ヨハネ6 ・11では、感謝の祈りと記される)。この行為は、最後の晩餐でも示されるとおり(マタイ26・26他並行箇所参照)、イエスの食事のときの基本行為をなしていた。行為としては、ユダヤ人の神賛美の食事において主人(家長)が行うものと同じであった。 最後の晩餐で、イエスがパンとぶどう酒をご自分の体と血として分け与え、これをわたしの記念として行うよう弟子たちに命じたことから、新しいキリスト教独自の聖体の秘跡、その典礼祭儀である感謝の祭儀が形成されていく。その際、イエスがそこで、パンや魚の前で、神への賛美の祈り、ないし感謝の祈りをささげたことは、感謝の祭儀における司式司祭がする儀式行為の原型として受け継がれている。ミサがイエスとの食事であることが示されるのである。そのようにして、多くの人をそれらの食べ物で満たしたという出来事の伝承は、そのまま聖体の秘跡の恵みについての予型(前もって示すしるし)となった。実際、教会はこの福音をそのように読み、またこの出来事を絵に描き続けてきた。 もう一つのこの話の結末には、残ったパン屑で十二の籠がいっぱいになったというところがある(ヨハネ6・13)。これも十二部族を連想させ、裂かれたパンによって養われていく教会=神の民を象徴する話と考えられている。実際、キリストの与えてくださる食べ物(聖体)によって、神の民は今も活かされている。 この絵の中のイエスの両側の使徒たちがパンにほほをすり寄せるようにして、へりくだって、大切に食べ物を受けとめている。やがてやがて使徒たちはそれらを人々に配り始める。その時へ移り変わろうとする瞬間における神の恵みの充満が画面全体から伝わってこよう。ここに描かれる人々のように、我々も、聖体を日々、待ち望み、ミサにおいてそれを受けることで、キリストとともに生きる者としてつねに新たにされていく。 |