| 2026年8月9日 年間第19主日 A年 (緑) |
「主よ、助けてください」(マタイ14・30より)イエスに助けられるペトロ モザイク イタリア モンレアーレ大聖堂 12世紀 きょうの福音朗読箇所マタイ14章22-33節は、先週の箇所にすぐ続くところである。イエスが群衆を解散させたあと、一人山に登って祈っていたこと(22-23節)を伝えたのち、湖での出来事となり、逆風のために波に悩まされていた弟子たちの乗る舟のところに、イエスが湖上を歩いて行ったとの一つの奇跡が語られ始める(24-25節)。 湖上を歩くイエスを見て、弟子たちがおびえ、恐怖のあまり叫び声をあげると(26節)と、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と、イエスはことばをかける。これにペトロが、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてくだい」と答え(28節)、イエスに「来なさい」と言われると、「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」(29節)。ところがペトロは、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」(30節)。するとペトロは「主よ、助けてください」(30節)と叫ぶ。すると、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(31節)。二人が舟に乗り込むと風は静まり、舟の中の人たちは「本当に、あなたは神の子です」(33節)と言って、イエスを拝む、という話である。出来事の「起承転結」がはっきりと出ている話だが、その「転」にあたる 沈みかけたペトロが「主、助けてください」と叫ぶとイエスが手を伸ばして捕まえたという瞬間が、このモンレアーレ大聖堂のモザイクの部分にあたる。 全体として、ペトロは「主よ、あなたでしたら」(28節)とイエスを試すような質問をしたあとに、ペトロ自身の信仰が試される展開になるところに深い興趣がある。 どうしてもイエスが湖上を歩くという奇跡、ペトロも湖上を歩くという奇跡談に目が奪われてしまいがちになる逸話であるが、この話には、イエスが主であること、神の子であることの啓示、そしてこのことに対する人々の信仰という明確な主題がある。弟子たちの乗っている舟を教会の象徴と見ると、逆風は信者たちに押し寄せる迫害の嵐であるとも考えられる。彼らを恐怖のどん底に置く嵐の中でも、主イエスは、それら地上のことを超えた方でもあり、同時に弟子たちのすぐ近くにいる方であり、「主よ、助けてください」(30節)とペトロがすがりついた「主」である。イエスこそ我々を恐怖から解放し、いつも「わたしだ」(27節、つまり「わたしがいる」)と言って、ともにいてくれる方である。そして、そのイエスに一切の恐れも迷いも揺らぎもなく、信頼し従っていくことが求められていることである。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)というペトロに対するイエスのことばは、叱責のようでいて、実は、すべての信者に対する慈しみに満ちた信仰への招きとして聞くべきものであろう。 この話は、マルコ6章45-52節、ヨハネ6章15-21節でも伝えられる。ただし、いずれの記述も、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6・50)、あるいは「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6・20)というイエスのことばが実質的に話のクライマックスとなっている。マタイの場合は同様のイエスのことばが実は、ペトロとのやりとりへの導入になっているところがユニークな特徴である。 他方で、この後半のペトロとの話は、ヨハネ福音書21章1-14節が伝える、復活したイエスの現れの逸話を思い起こさせるところがある。ペトロを先頭に漁に出かけた総勢7人の弟子たちが何もとれずにいたところ、復活したイエスが現れて岸に立って語りかける。そのことばに従って、弟子たちが網を打つと「魚があまり多く、もはや網を引き上げることができなかった」(ヨハネ21・6)。そこで、「主だ」(同21・7)と気づいたペトロが湖に飛び込むというくだりである。さらにヨハネ21章はその15節から19節までイエスとペトロの対話(ペトロへの再度の召命の話)となる。 このようなすべての福音書によって展開される、弟子たちとイエスとの出会い、とりわけペトロのイエスとの出会いや一緒に歩んでいたときの体験の伝承がさまざまな文脈に散りばめられて伝えられているように感じられる。きょうの福音が伝える、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14・27)ということばは確かに、弟子たちの、そして教会の信仰体験の土台にあり、伝えられ続けているイエスのメッセージである。その「わたし」が「わたしのからだ」「わたしの血」として我々に与えられている。そして、この「わたし」は、マタイ福音書の終わりで「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)、「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」(同28・20)と告げられる「わたし」でもある。このイエスの「わたし」と、今我々もミサを通して、たえず出会い続けている。 |