| 2026年8月16日 年間第20主日 A年 (緑) |
「主よ、どうかお助けください」 (マタイ15・25より)オランス(祈る人) フレスコ画 ローマ トラソンのカタコンベ 4世紀 福音朗読箇所は、異邦人の女の信仰と呼ばれる箇所。自分のたちの言い伝えを重視するあまり、神から離れてしまったファリサイ派や律法学者の姿に続いて、それと対照的な、異邦人の女の信仰が伝えられている。 ファリサイ派や律法学者の人々の態度と彼らに対するイエスの教えが述べられるのは、マタイ15章1-20節であるが、この箇所はA年の主日ミサでは朗読されない(ちなみに、こことの並行箇所マルコ7・1-23はB年の年間第22主日で読まれる)。とはいえ、きょうの福音を黙想するためには、マタイの15章全体の流れを踏まえる必要がある。 さて、きょうの福音朗読箇所は、イエスと女との短いことばのやりとりできびきびと展開する。その中でも、実は救いの歴史の大きな展開が記されている。それは、並行箇所であるマルコ7章24-30節には出てこない、マタイのみが記すイエスのことば「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15・24)によって示唆される。同じようなことばが、マタイ10章の12人の弟子を派遣する場面でも出てくる。「異邦人の町に行ってはならない。また、サマリア人の道に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10・5-6)。これも並行箇所(マルコ 6・7 -13、ルカ9 ・1 -6 )には出てこないマタイ固有の内容である。 つまりマタイでは、イエス自身、イスラエルの民のうちにあって信仰を失い、神から失われたものとされる人に「天の国は近づいた」と福音を告げることを優先的な使命としていたということになる。ところが、復活後の弟子たちの派遣の場面では、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」(マタイ28・18-19)と告げる。イスラエル中心の宣教派遣の意向が、死と復活を通して、すべての民への宣教派遣へと発展しているのである。マタイの叙述展開を見る限り、イエスにおいてすべての人のためというのは意識にあったにせよ、それが顕在化されるのは、個々の人々との出会いを通してであり、決定的には死と復活を契機としているということになる。 そのような展開の中で、カナンの女との出会いは大きな役割を持つ。イエスによる宣教派遣は、この人との出会い、そしてこの人の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(22節)「主よ、どうかお助けください」(25節)という切実かつ誠実な願い、そして、自らを主人の食卓から落ちるパン屑をいただく小犬にたとえる謙遜な姿勢に、イエス自身が動かされて、彼女の信仰をたたえ、その娘の病気をいやすのである。人との出会いの中で心を動かされていくイエスの姿がここにはある。神の子としての力を発揮するイエスだが、その心の動きはとても人間的である。 さて、福音朗読箇所の探究が長くなったが、きょうの表紙絵は、ローマのカタコンベの壁画「オランス」の作品例である。オランスは、初期の教会の人々の魂の象徴として描かれているものといわれ、カタコンベ(地下墓所)という場に描かれたものから、死にゆく人々が来世の幸福を願う魂の姿を形象化したものともいわれるが、絵自体は、もっと普遍的な祈る人の姿としても鑑賞することができる。この絵の場合は、ローマ時代の比較的高貴な家柄の女性の姿で表現されている。ローマは、まさに異邦人世界の象徴であり、新約聖書の範囲における使徒たちの宣教の一つの目標地点であった。そのような中でキリストの福音を信じていく諸国の人々の増加していく様子とその心をローマ芸術的な自然描写や女性の人物描写の雰囲気をそのまま残しながら描きとどめ、印象づけた作品ともいえる。 そのような中で「祈る異邦人の女性」の姿は、きょうの福音と関連づけて鑑賞することができる。イエスに対して「主よ、憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という率直な祈りを差し向けていく、すべての人々の姿をこの絵の背後に感じていきたい。このことばが同時に、すべての人の主であるイエスに対する信仰告白でもあることはいうまでもない。願いが願いにとどまらずに、何よりも信仰告白であり、しかも賛美をこめた信仰告白となっている。ミサの開祭で我々が告げる「主よ、いつくしみを」の叫びもまさにそうである。カナンの女の願いと信仰は、時代と地域を超えて、イエスと出会っていくすべての人の前例であり、模範にちがいない。我々自身が「オランス」(祈る人)であり続けることが、神の御心でもある。 |