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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長・日本カトリック神学院教授 石井祥裕)
2026年8月30日 年間第22主日 A年 (緑)
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタイ16・24より)

十字架のイエス 
プラハで作られた祭壇刺繍垂帳の部分
スイス ベルン歴史博物館 14世紀半ば 

 祭壇飾りの刺繍にキリストの生涯の諸場面が描かれるということがあったことがわかる作品である。
 スイス、アールガウ州のケーニヒスフェルデン修道院に所蔵され、現在はベルン歴史博物館の所蔵となっている。このような刺繍はプラハの宮廷工房が一つの拠点となっていたようで、ドイツやオーストリアの修道院にも広まっていたという。十字架磔刑図としては、やはり中世末期の信仰心の反映を見ることができる。イエスの死の苦しみが、大きく屈曲した身体や力なく下がる両腕によって強調されている。マリアと使徒ヨハネという十字架の下にいる人物も悲嘆の表情が強い。精妙な刺繍作品のため、そこに紡がれた受難への共感が深く伝わってくる。
 さて、きょうの福音朗読箇所はマタイ16章21-27節。イエスが最初の受難と復活の予告をするところから始まる。それに対して、ペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)といさめると、イエスはペトロを叱責する。「サタン、引き下がれ……」(23節)と。そして、弟子たち皆に告げる。そこには厳かな響きがある。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい……」(マタイ16・24)という、明確な呼びかけである。そして、ここからの告知は、人の子(イエス・キリスト自身)が再び来るとき、「それぞれの行いに応じて報いる」(16・27)ということばで締めくくられる。イエスを信じてついていこうとする人々の人生をすべて包み込むような重大かつ決定的なメッセージの箇所である。
 イエスに従う生き方について、鮮明なイメージとなっているのが「十字架」である。そして自分の十字架を背負うこと(24節参照)は、わたし(イエス)のために命を失うことと同格の行為として語られている。そしてこのことが究極的には、自分の命を救うことになると言われている。「命」が地上の命の意味から、永遠の命、真の命へと意味が高められているのも、イエスのここでのことばの深いところである。そして、このメッセージが、冒頭で予告されているイエスの十字架と復活の意味を照らし出す。この予告自体が、イエスに従うことへの招きであることがはっきりしてくるのである。イエスの受難と復活は、神から人への強烈な招きにほかならないことがきょうの福音から明らかである。
 きょうの第一朗読と第二朗読の配分は、この福音朗読箇所が含む意味合いをちょうど補いつつ、また鮮明にしてくれるように思われる。第一朗読箇所のエレミヤ書20章7-9節はイエスの受難の予型として、エレミヤが自らの苦難を語る。神に背く者たちの勢力によって捉えられ(7節参照)、嘲りを受ける(同)、「恥とそしり」(8節)を受ける。しかし、その中でも、預言者の中では、主の言葉が「火のように燃え上がる」(9節参照)のである。苦難を超えてこそ力を発揮する神のことば、神のいのちへの暗示がある。きょうの表紙絵の苦しむイエスの姿をここでの預言者の姿と重ね合わせてもよい。
 そして第二朗読箇所のローマ書12章1-2節で、福音におけるイエスの「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい……」ということばに呼応する生き方が、パウロによってはっきりと語られる。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(1節)である。この自分をいけにえにすることの模範がイエスの十字架上の自己奉献にほかならない。それに従い、自分自身を神にささげていく、というところに、キリスト者の生き方の明確な方向づけがある。キリスト者の生き方の根底をなす生き方、霊性の基礎といってもよい。そのことを共同で体現するのが感謝の祭儀(ミサ)であることはいうまでもない。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい……」はミサの意味を説き明かすことばでもある。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』年間第22主日

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