| 2026年9月6日 年間第23主日 A年 (緑) |
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる(マタイ18・20より)復活したイエスと弟子たち ドゥッチオ マエスタ背面図 イタリア シエナ大聖堂美術館 14世紀初め ドゥッチオの「マエスタ」と呼ばれる栄光の聖母子を主題とする絵の背面にある図。ここにはキリストの生涯のさまざまな場面が描かれている。伝統的な主題が多いが、人物描写は立体性・写実性を増し、古代・中世の画題の伝統と近代的感覚とが結びついた絵画世界が展開される。表紙絵の場面は、復活したイエスが弟子たちの前に現れ、教えを説いているところである。山の上という情景からマタイ28章の最後のメッセージの場面と思われる。きょうの福音朗読箇所は、マタイ18章15-20節。新共同訳で「兄弟の忠告」として全体に見出しがついている部分である。この生前のイエスが弟子たちに語った訓戒の場面は、この絵と厳密には一致していないが、弟子たちを前にしたイエスの説教に対する絶好のイメージ図になっていると言えよう。 きょうの朗読箇所の前半=マタイ18章15-17節では兄弟への忠告が主題となっており、後半18-20節では、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)という教えに続く部分である。全体を通じて「二人」とか「二人または三人」ということへの言及が繰り返されているところに「教会」(マタイがはっきりと使う)のあり方、生き方についての教えであることがわかる。神を信じ、キリストに従う弟子たちの共同体の形成を目指しての教えである、という点、表紙絵の弟子たちの密集した光景とともに考えてみたい。 実際、福音書が伝えるイエスの活動と教えは、今の我々にとっては、すべて、復活した主イエス・キリスト、すなわち父である神の右の座についておられる主キリストからのメッセージであることを意識する必要がある。文章の内容が昔のものではなく、現在、意味あるものであることが示されるのも絵の役割である。それは、典礼における聖書朗読の意義とも通じる。「聖書が教会で朗読されるとき、キリスト自身が語る」(『典礼憲章』7項)のである。このことの理由とも言えることが、きょうの福音朗読箇所で言われている。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)。弟子への忠告の勧め、また地上と天上の「つなぐ」・「解く」行為(後述参照)における一致というテーマも、遠い過去の教えではなく、我々の教会共同体、そして、典礼の実践とも結びついていることを考える必要がある。イエスの言う「あなたがた」は、あの弟子たちだけでなく、今の我々自身であると考えなくてはならない。絵の中に、ひしめいて立っている弟子たちは我々の姿にほかならない。 この絵の中でイエスも弟子たちも、山の上に立っていることは、地上と天上の一致に触れるきょうのイエスのことばとの関係からも味わい深い。山は地上と天上とが接する境界だからである。この教えは、先々週年間第21主日の福音朗読で読まれた、ペトロへのことば「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16・19)とも並行しており、さらには、マタイ28章18-20節におけるイエスのメッセージとの関連も考えられる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)と言われているところである。しかもこのメッセージの最後で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と告げられており、すべての教えが深く関連し合っている。キリストに倣って、ペトロをはじめ弟子たちに天上と地上とを一致させる権能が授けられる。権能というところからは、司祭職と結びつく赦免の役割という風に考えていく道もあるし、実際に、ゆるしの秘跡については、その側面が重視されるが、ここで言われる「つなぐ」・「解く」行為をもっと広く、信者一般に求められる罪のゆるしと関連づけられて考えていく道もある。この広い意味のゆるしは、主の祈りが教えるところと通じている。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。……わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」……。このように考えていくと、わたしたちの信仰生活との結びつきがよりよく見えてくる。ミサでも祈られる主の祈りに対する一つの観点である。ミサそのものとのつながりも見えてくる。 |